2007年12月22日土曜日

(墓80)神々の混沌、人々の葛藤、弥栄への祈りを歌ふ涼恵さん


神々の混沌、人々の葛藤、弥栄への祈りを歌ふ涼恵さん
ライヴハウスには言霊が満ちてゐた
太田宏人・記


 彼女が唄ひ出すと、その場の空気が一変した。低音と高音を駆使する伸びやかな唄声に、聴衆は瞬時に魅了されてしまったやうだ。
 声質が良く、歌唱の技巧に優れただけの歌手ならいくらでもゐる。だが、圧倒的な存在感、魂を揺さ振るメロディーと歌詞、ときに明るくときに暗く、聴く者の存在を抱き止めるやうな唄ひ手は珍しい。歌唱の姿が祈るがごとき印象を与へる歌手は稀有だ。
 「言霊に祝福された唄ひ手」
 これが、涼恵さんのステージを拝見した時の第一印象であった。彼女のライヴは言霊のシャワーであった。
  ◎   ◎
 十一月二十五日(日)、四谷天窓.comfort(東京都新宿区高田馬場)で行はれたスタヂオ言霊の特別公演「時代(とき)の風」を観た。脚本・構成は松田光輝さん。歌唱は神戸市の小野八幡神社権禰宜でもある涼恵さん。すべての曲が彼女の作詞作曲だった。
 菊池智子さんのピアノ、松田さんの一人芝居(朗読)と涼恵さんの唄が絡み合ひながら、ストーリーが進行した。
 以下、涼恵さんの唄について書かう。彼女の音楽世界は豊かな二律背反を奏でる。たとへるならば神と人、自然と人為、和魂と荒魂、優しさと厳しさ、光と闇。これらが同居し、混沌を極めるのだが、時として闇の側面が勝るやうだ。これは彼女の内なる闇なのかもしれない。だがその闇のなかに、希望や救済、人の世の弥栄への祈りを感じたのは筆者だけではあるまい。
【この世には良いことも悪いこともたくさんある。幸運に見放されてゐるやうな時もあるだらう。だが、生きてきたこと、生きてゐること、生きてゆくことは、当たり前のやうに素晴らしい】
 彼女の闇は、我々にエールを送る温かい闇だった。
  ◎  ◎
 芝居と歌唱、ピアノの生演奏といったそれぞれのパーツの練度は悪くはなかったと思ふ。ただ、演出として狙ったのか、各者がそれぞれの情熱と才能を無計画にぶつけ合った結果なのかは不明だが、三者の放つ存在感は凸凹であった。その不揃ひさの妙味は有名歌手や役者の公演では得られまい。インディーズの醍醐味であらう。今後は、三者が同じステージに立つことで生まれる相乗効果のさらなる輝きに期待したい。
(おほた・ひろひと=フリーライター)

「神社新報」平成19年12月17日掲載

2007年12月20日木曜日

(墓79)ペルー慈恩寺の100周年記念式典/麻生太郎氏が祝辞

ペルー慈恩寺の100周年記念式典
麻生元外相が祝辞寄せる
報告と未来への課題
太田宏人


(サンパウロ新聞:2007年11月22日掲載)
 南米最古の仏教寺院である泰平山慈恩寺(ペルー共和国リマ県カニエテ郡/無住)で11月3日(現地時間)、同寺の創立100周年を記念する式典が行われた。主催は慈恩寺有志の会。
 式ではまず寺誌プレートの除幕式があり、南米とゆかりの深い麻生太郎元外務大臣から寄せられた祝辞が読み上げられた。元外相はペルーの日系人および慈恩寺の歴史を振り返りつつ、「日系の皆様が今後とも力と心を合わせ、この移民の聖地の中心である慈恩寺を永久に護持されんことを冀う」と結んだ。
 祝辞の代読は地元ペルーでも屈指の金融機関であるKYODAIグループのハビエル・クズマ代表が行った。同グループは今回、寺誌プレートおよび歴住の写真額を新調する費用を負担した。
 除幕式後、仏式法要が厳修された。法要には読経師と呼ばれる在野の宗教家の徳田義太郎(ロベルト)師のほか、ペルー人で初めて僧侶になったカスティーヤ仙玄師らが参加し、曹洞宗の法式だった。
 慈恩寺100周年への参加を目的に日本からやってきたというある日本人は「慈恩寺内は空気が違う。堂外は南米だが、堂内は日本。しかも、独特の神聖さがある」と前置きし、「式典参加者は約30名で小規模なものだったが、慰霊の心がこもり温かい式だった」と感想を述べていた。
 法要後、地元の互恵組織であり、慈恩寺の維持管理を行うカニエテ日系協会のミゲル・グスクマ会長があいさつ。参加者への謝意を表し、「これからも各方面と連携し、微力ながらもお寺を守っていきたい」と語った。
 その後、参加者に食事が振る舞われ、慈恩寺有志の会が用意したおにぎりや太巻きなどの手料理を食べながら楽しい一時を過ごした。式にはリマ市の日系学校「ヒデヨ・ノグチ校」の中学生4人と教師1人が招待された。生徒の一人は「おにぎり食べるのは久しぶり。とてもおいしい」と満足げだった。
 慈恩寺は、明治40年に同郡サンタ・バルバラ耕地内に建てられた。二度の移転を経て現在に至る。現在の建物の落成は1977年。1992年以降は無住である。ペルー日系人協会および、その支援を受けるカニエテ日系協会が維持管理に当たっている。
 慈恩寺有志の会はペルーと日本にメンバーがいる在家のグループであり、超宗教で超宗派。慈恩寺は曹洞宗の寺籍と言われるが、実質的に曹洞宗と慈恩寺の関係は切れている。その証拠に、盆と彼岸の法要は、日系人協会に後押しされた浄土真宗本願寺派が、曹洞宗と交代で行うという異常事態になっている。

■大使館は不参加

慈恩寺有志の会では式典開催にあたり、リマの総領事館(大使館と併設)に大使もしくは公使等の参加を呼びかけたが、門前払いにあった。メールの返信文は「ご案内いただきました慈恩寺創立100周年祈念行事に関しまして、ご趣旨は理解申し上げますが、総領事館または総領事館館員として今回のプログラムに参加することは差し控えたく存じますのでご理解願います」(原文ママ)。
無論、これまでの慈恩寺の行事には大使館もしくは総領事館の参加はあった。現在の慈恩寺に移転した際は、小関領事(当時)が改築の音頭を取ったうえ、慈恩寺の看板は木本大使(同)の揮毫というふうに、慈恩寺と日本の在外公館の結びつきは強い。
式典前日、大使館に電話かけると「そんな話は聞いていない」と驚いた様子で、数時間後、領事館から電話がかかってきた。電話の主が門前払いをした人物だった。「じつは、赴任して数ヶ月。慈恩寺のことは良く知らなかった」という。
リマの日系人や在留邦人の社会では大使館・総領事館の批判は最大のタブーといわれる。サンパウロでは想像もできないことだが、リマはこのような出鱈目がまかり通る世界である。
ペルー日系人協会も参加に及び腰であった。これは、同協会と曹洞宗の関係が悪いことに原因がある。今回、主催した慈恩寺有志の会は超宗派で超宗教である。慈恩寺は近年、浄土真宗本願寺派と曹洞宗が「同居」する状態。その原因は日系人協会が介入したことによる政治的な要素が強い。また、信者団体や僧侶がいないことも影響している。
そこで慈恩寺有志の会では両宗派に呼びかけて合同での式典を提唱したが、浄土真宗本願寺派は8月に独自に百周年の法要をやってしまった(寺の歴史さえ知らずに)。曹洞宗は教団としては不参加であったが、有志の僧侶が参加することとなった。
この僧侶は、「有志の会」の制止を聞かずに曹洞宗をアピールしすぎた結果、日系人協会は「曹洞宗の行事」と誤解してしまったらしい。協会の関係者によると、式典の当日に曹洞宗の名前でリマの日秘文化会館のホールが借りられていたという。むろん、主催者である「有志の会」はそのようなことは誰も知らなかった。
それでも、協会の何人かの幹部は参加を希望していたのだ。が、「領事館も行かないのでは」と、最後は辞退してしまった。
領事館の人間は、不参加の理由を「日系人協会が参加しないのであれば」「日系人協会が公認しない行事であれば」などといっていたが、本末転倒・責任転嫁もはなはだしい限りであろう。だいいち、近年の慈恩寺をめぐる騒動は、信徒団体でもない日系人協会が、自らの規約に反して宗教に絡みすぎた結果である。協会が正しいとは限らない。協会が道を踏み外した場合でも、公館は、協会公認の行事であれば出席するのだろうか。
僧侶といい協会といい在外公館といい、慈恩寺のことを真剣に考えることは今後もないのだろうか。先人の霊が泣いている。
[写真:法要で読経する徳田師(中央)とカスティーヤ師(左)]


麻生元外相による慈恩寺100周年への祝辞(全文)

 明治32年、つまり1899年、南米へ向けた初の移民団が日本からペルーに到着し、今年ですでに108年の歳月が流れました。ペルーの日系社会は、南米の日系社会のパイオニアであり、これまでの歴史は苦難の連続であったことを思うと、こんにち、皆様が築かれた社会的地位の高さは驚異というほかはなく、同じ血を持つ同胞として、非常に誇りに思う次第です。
 日系の世代交代は進みましたが、皆様がいまでも日本の心を失っていないことを、私は嬉しく思います。現在でも、日系のご家庭には仏壇が祀られるばかりか、泰平山慈恩寺という立派なお寺が大切に護られ、毎年欠かさず先没者の慰霊法要が続けられてきたという事実に、身の震えるような深い感銘を覚えます。これはひとえに、皆様の先人への感謝の念の表れではないかと思います。日本に住む日本人が失ってしまった大切な気持ちを、皆様がお持ちになっていると言っても過言ではないでしょう。
 近年、慈恩寺の歴史が克明に調べられるにおよび、このお寺が南米大陸で最古の仏教寺院であることが判明しました。歴史を紐解けば、いまをさかのぼる100年前に、上野泰庵という禅宗の僧侶の指導のもと、当時は決して裕福とはいえなかった移民の方々がわずかずつ浄財をあつめ、サンタ・バルバラにお寺を建立したのが明治40年、西暦では1907年でした。創建当初から、お寺は宗教宗派に関係なく、多くの日本人が集まったそうです。
 お寺では、志半ばで病に倒れた同胞の霊を慰めるほか、お寺の隣には、これまた南米最古となる日本人小学校が建てられ、歴代のお坊さんが教壇に立ちました。
 古い写真を見ますと、慈恩寺の建築は純和風で、日本庭園も備えていたようです。遠く遥かな異国にあって、この場所は移民の方たちにとっての心のふるさとだったのでしょう。カサ・ブランカ耕地には立派な慰霊塔の建つ日本人墓地もあります。また、慈恩寺にはペルー全国の日本人墓地から集められた土が合祀されています。かつて「カニエテは移民の聖地」と呼ばれていたそうですが、まさにその聖地の中心が慈恩寺でしょう。
 お寺は二度の移転を経て、現在の場所にあります。今回、慈恩寺の略史を刻んだプレートを設置するに当たり、パドリーノの栄誉を賜りましたことに、心より御礼申し上げます。あいにく公務のため、プレートの除幕式には欠席しますが、これを機に南米の日系の皆様との絆をさらに深めることができますことに鳴謝申し上げます。
 最後になりましたが、皆様が今後とも力と心を合わせ、この移民の聖地の中心である慈恩寺を永久に護持されんことを、冀うものであります。

平成19年11月3日
日本国 衆議院議員 麻生太郎



記事の墓場WEBサイト
http://www.geocities.jp/tontocamata/