互恵という精神の素晴らしさ~日系ペルー人の場合~
太田宏人(ライター)
わたしは以前、ペルーで暮らしていました。
当時は、現地の日系社会の日刊紙(日本語とスペイン語のバイリンガル新聞)で記者をしていたのですが、日系社会には、日本に住む日本人がすでに失ったり、失いつつある、さまざまな習慣や言葉、心根、精神が、いまも息づいていることを知りました。
もっとも、ペルーを含めた南米、ハワイや北米、中米への日本人の移住は、100年以上の歴史を有しますし、各国ではすでに日系5世や6世が誕生しているので、戦後の移住者を除けば、日本語を話す人々は少なくなっています。しかし、彼らが話す言葉が英語やスペイン語、ポルトガル語といった現地のものに変化しても、彼らの習慣や行動の「本質的なところ」は、やはり日本人的なものなのかもしれません。
たとえば、ペルーの日系社会において現在も普通に行われている「ソブレ」という習慣。
ソブレというのは、スペイン語で「封筒」という意味です。
日本人やその子孫たちは昔から、同朋(どうほう)の結婚式や葬儀に際して、参列者が金一封を出し、経済的な面で支えあってきました。いってみれば、日本の祝儀袋や香典袋です。しかし、日本製のこうした慶弔封筒が手に入りにくいペルーでは、市販の封筒(ソブレ)に現金を入れて、新郎新婦や喪主(喪家)に渡したのです。そうしていつしか慶弔封筒はソブレと呼ばれ、この行為そのものもソブレと呼ばれるようになり、今日に至ったのです。
ソブレなどという代物(しろもの)は、(日系ではない)ペルー人にとって、非常に奇異なもののようです。彼らの冠婚葬祭では絶対に登場しません。だいいち、日系人の冠婚葬祭に出席する(日系ではない)ペルー人は、ソブレを出すことを嫌がります。
「なんでお金など出さなければならないのだ?」
という思いを抱くそうです。ペルーの人々に「支えあう気持ち」がないわけではないでしょうが、そういう気持ちが、金銭的なことに結びつかないのかもしれません。
つまり、ソブレという行為の背景にある互恵(ごけい)の精神、もしくは互助の精神は、日系人特有なのでしょう。実際、ソブレの恩恵があれば、どんなに貧しい家庭でも葬儀を出すことができるのです。これは非常に重要なことでした。海外に暮らす日本人は、日本に住む日本人以上に、葬儀を大切にしてきました。
■見返りを求めない互恵の心■
現在のソブレの額は、日本円にして数千円から1万円程度ですが、日本との経済格差を考えると、日本で言われているような香典の「相場」よりは若干、高額であると思います。しかし、日本の「香典」ともっとも異なるのは、香典返しのようなものがない、という点です。
結婚式の「お返し」は、多少手の込んだものが最近は見受けられますが、葬儀に際しては、故人の小さな写真をはめ込んだり、生没年月日や氏名を書き込んだ小さな置物や、参列への謝辞を書いたカードを会葬者に配ることが多いようです。しかし、これらは、さほど高額なものではありません。
ということは、ソブレは「もらいっぱなし」「あげっぱなし」になる可能性があるのです。それでも、同朋(この言葉は、1世たちが好んで使いました)のためなら、ソブレを出すのです。見返りを求めない、素晴らしい互恵の精神だと思います。
ソブレという相互扶助のシステムが今でも生きているのは、やはり、日系人が葬儀を大切にしているからだと思います。相互扶助は、金額だけの問題ではありません。ソブレは、連帯意識を形に表したものでもあります。「亡くなられた人を、みなで弔う」という気持ちを、ソブレという行為に託しているのだと思います。
香典とは本来、見返りなど求めない互恵の精神に基づく行為なのかもしれません。
おおた・ひろひと/「ペルー新報」元編集長。現在、雑誌「SOGI」等に執筆中
(2009年、埼玉県内の某葬儀社の会報に掲載)
2009年9月1日火曜日
2008年12月3日水曜日
(墓83)「涼恵コンサートin Brasil」大成功
新渡戸稲造の後裔で、シンガーソングライター・涼恵さん(神戸市/小野八幡神社権禰宜)の里帰りコンサートがこのほど、ブラジルで行われた。
涼恵さんはサンパウロで生まれ、2歳まで同地で育った。「里帰り」は10年ぶり。今回は、今年が日本人ブラジル移住100周年にあたるため、それを記念したコンサート・ツアーとなった。
11月5日のブラジル日本文化福祉協会・記念講堂(サンパウロ市東洋人街)のコンサートは、日本学生海外移住連盟の発足50周年を記念した日本映画の上映会とセットで行われた。300人を超える聴衆は、涼恵さんの独特の歌唱力と雰囲気に息を呑んで耳を傾けていた。涼恵さんは「生まれた地で、初めて行うコンサートに感無量です」と感激しきりだった。
曲目は、「この道」「涙そうそう」「故郷」のほか、「さくら道」「豊葦原の瑞穂の国」「水の惑星」のオリジナル曲。
その後涼恵さんは、マナウス等でのコンサートを二回行い、各地の日系人に盛大な歓迎を受けたもよう。
写真は、ブラジル日本文化福祉協会・記念講堂で熱唱する涼恵さん
以下は、当地の日本語新聞の記事
http://www.spshimbun.com.br/content.cfm?DO_N_ID=26277
涼恵さんはサンパウロで生まれ、2歳まで同地で育った。「里帰り」は10年ぶり。今回は、今年が日本人ブラジル移住100周年にあたるため、それを記念したコンサート・ツアーとなった。
11月5日のブラジル日本文化福祉協会・記念講堂(サンパウロ市東洋人街)のコンサートは、日本学生海外移住連盟の発足50周年を記念した日本映画の上映会とセットで行われた。300人を超える聴衆は、涼恵さんの独特の歌唱力と雰囲気に息を呑んで耳を傾けていた。涼恵さんは「生まれた地で、初めて行うコンサートに感無量です」と感激しきりだった。
曲目は、「この道」「涙そうそう」「故郷」のほか、「さくら道」「豊葦原の瑞穂の国」「水の惑星」のオリジナル曲。
その後涼恵さんは、マナウス等でのコンサートを二回行い、各地の日系人に盛大な歓迎を受けたもよう。
写真は、ブラジル日本文化福祉協会・記念講堂で熱唱する涼恵さん
以下は、当地の日本語新聞の記事
http://www.spshimbun.com.br/content.cfm?DO_N_ID=26277
2008年10月8日水曜日
(墓82)大分「置地蔵事件」/鉄道で地蔵を粉砕
大分で「置石」ならぬ「置地蔵」事件が勃発
自殺供養の石地蔵を線路で粉砕
徹底的な現場検証で浮かび上がった犯人像
警察も知らない目撃情報をキャッチ
取材・写真・文/太田宏人
2006年。大分市内の某神社で、境内で暮らしていた多数の野良猫がボーガンか何かで惨殺される事件が起きた。地元の人々は、「若いものの犯行」「若い奴等は」などとウサワをしていたそうだが、この惨劇は、なにか、その後の事件のエピローグを飾るようでもあった。
そして今年(2007年)の7月25日。多くの人が顔をしかめるものの、新聞の第一面を飾るほどでもなく、被害者がいるわけではないが強いて言えば「死者」が被害者になるという、すこし奇妙な事件が、大分市の郊外で発生した。
事件発生は午前6時12分ごろ。大分市元町のJR九大線・古国府(ふるごう)トンネル入り口で、この日の一番列車である大分発日田行き上り普通列車(2両編成)が、大きな石のようなものに衝突し、緊急停車した。
乗員乗客にけがはなかったが、車輌前部が破損した。運転士が調べたところ、現場付近には多数の石片が散乱していたという。
置石である。だが、置石にしては衝突の衝撃が大きく、石の破片も多い。
運転士からの通報を受けた警察が調べると、これは、現場近くに祭られていた石仏の地蔵尊であることが分かった。重量は約20キロだった。
地元民によると、約20年前、受験に失敗した地元の高校卒業生がトンネルの上部から列車に飛び込み自殺をした。地蔵像は、悲嘆にくれる遺族を見かねた地元の婦人達が、自殺者の供養の意味もこめて、トンネルの眼前に建立した「見守り地蔵」だったである。
同じ場所では過去に数度、自殺があった。地元では幽霊トンネルとも囁かれた場所。霊能者によると、トンネルのなかに「いる」そうだ。
置石ならぬ「置き地蔵」の舞台となった場所は、まさに複数の自死が発生したポイントであり、住民は「いたずらにしては限度を超えている」「祟りがあるのでは?」「自殺者が浮かばれない」と、一様に怒りと驚きを隠せない模様である。
大分県警大分中央署は列車往来危険容疑で捜査中だ。署内での正式名称は「線路内における置石(地蔵様)事案」。警察用語では「置石」だが、置石に分類することに躊躇があったのかもしれない。地蔵に「様」をつけるあたり、人情を感じる。
事件の背後に見え隠れする犯人像
周辺では、石仏などに対するいたずらが頻発していた。
現場付近は石仏の多い場所だ。大分市の観光案内版の脇にも石仏が配されているのだが、数年前には古国府トンネル付近の案内板の石仏が蹴り倒されていた。だが、住民たちを驚かせたのは、見守り地蔵から数百メートルも離れていない「岩屋寺石仏」に対するいたずらだった。岩屋寺石仏は平安初期の作といわれる磨崖仏(まがいぶつ)群で国指定の史跡。
事件は昨年12月に発生した。岩屋寺石仏に設置された8躯の石仏と標識に、青色のスプレーペンキがべったりと塗られていたのだ。
被害にあった石仏は、幸いにも磨崖仏ではなかった。付近の寺院が、境内から移設したものだった。
付近の寺の住職らが作業をして、青色のペンキはどうにか落とすことに成功したが、騒動は続いた。今年1月には、近くの県立大分上野丘高校の庭のブロンズ像に金色のスプレーが、7月には、同じく付近の県立芸術短期大学の敷地に隣接する六地蔵にも、青のスプレーがかけられた。同じペンキだったという。
元町の見守り地蔵に対するいたずらも、じつは今回が初めてではない。今年7月上旬、「消えていた」。ある日こつ然と、姿を消していたのだ。
住民が探すと、線路脇の草むらのなかに倒されているのが、7月17日に発見された。地元の人々は地蔵像を元の場所に戻し、先ほどの寺の住職に供養してもらったのだが、25日には、何者かによってついに線路に置かれ、粉砕という結末を迎えたのだった。
石仏等に対する執拗な手口を考えると、同一人物の犯行と推測される。地元では「少年か若い者の仕業だろう」という声が多い。
大分の地元紙「大分合同新聞」も置地蔵事件に触れ、7月28日の朝刊コラムで若者のゲーム感覚での犯行や「祟り」をほのめかしている。
しかし、である。
散歩をしていた人たちの証言によると、芸術短大隣接の六地蔵は、犯行のあった日の午前7時、元町の見守り地蔵は同6時には無事な姿が目撃されている。六地蔵は8時前までにはペンキを塗られ、トンネルでは6時12分ごろには列車が衝突している。
それぞれ、早朝のわずかな時間での犯行ということが分かる。一帯には田畑が多いとはいうものの、住宅街である。朝に散歩をする高齢者も多い。農作業の人たちもいる。
とくに、見守り地蔵のあった場所は、国道10号線から良く見える場所であり、国道の「岩屋寺入口」信号からも遠くない場所。停車中の車内からは、はっきりと見えると思われる。
自殺の「名所」なので(というよりも、近年は変態親父が出没するとかで)、夜は気味悪がって人通りが少ないものの、地蔵の脇を通る細道は、国道の抜け道になっていて、日中は人通りが、けっこうある。朝方は高齢者の散歩も多い。
高校のブロンズ像の一件は、岩屋寺石仏の事件に刺激された若者によるいたずらかもしれない。高校の件は、夜に行なわれた可能性が高いという。上野丘高校では近年、卒業生を装った男が卒業生の家に電話をかけ、個人情報を聞き出すといった事件も発生しているが、これは別件のようだ。
一方、六地蔵や見守り地蔵そして、そのほかの石仏の事件に共通して言えることは、犯行時刻が朝ということ。そんな時間に若者が何かをしていれば目立つだろう。
また、散歩などの地元の人の流れを把握していなければ、犯行は不可能だ。そして、若者特有の「落書き」ではない。岩屋寺の石仏の顔を青で塗りたくった手口は、じつに粘着的だ。
愉快犯にしては、犯行が粘着質すぎる。しかも、逆に言えばこの程度の「いたずら」で愉快になれるものだろうか。
そして、ターゲットは明らかに「石像」だ。愉快犯の対象になるのだろうか。
以上のことを総合すると、犯人は通行人に目撃されても怪しまれない人物、つまり地元の人間でかつ、ある程度信用された者ではないのだろうか。先に紹介した寺院とトラブルを起こしている、またはその寺院に対して嫌がらせをしたい理由のある中年の仕業かもしれない。
実際、聞き込みを続けていると「事件の当日、犬を連れた中年男性が、線路に入ってしきりに何かを探していた」と語る婦人がいた。この男は、何を捜していたのだろうか。
事件の朝、現場周辺では警察が地蔵の破片を拾うなどの現場検証を行った。その騒ぎが落ちついてからの時刻だ。何か、捜すものはあるのだろうか。ふいに胸をよぎった言葉は「犯人は現場に戻る」、それだった。
このいたずらの「罪」の重さ
JR九州によると、同社では車輌前部のパーツ交換を行なった。損害額は約5万7000円。自然災害ではないので、犯人が捕まれば損害賠償を行なうことになるという。乗用車を壁にぶつけて、前部のバンパーを交換するより安い損害額だが、問題は刑事罰のほうだ。
この地蔵様には持ち主らしい持ち主がいないので器物損壊罪が問われるかどうかは不明。一方、線路上に(石仏を含めて)置石をした場合、刑法の「往来を妨害する罪」第125条「往来危険」の罪に問われる。「鉄道もしくはその標識を損壊し、又はその他の方法により、汽車又は電車の往来の危険を生じさせた者は、2年以上の有期刑または20万円以下の罰金」。未遂であっても処罰対象になる。いわゆる未必の故意である。
けが人が出た場合は「傷害罪」が適応され、10年以下の懲役。死人が出ると、罪はもっと重い。同126条「汽車転覆等及び同致死」の第2項目は「死刑または無期懲役」と規定する。
上記は、人の世の裁きだ。だが、この世ならぬ領域の「罪」は、だれが裁くのだろうか。
事件後、検証のために警察が石片を持っていったが、一定期間が過ぎたため、地元住民に返還された。その石片を受け取った地主は、「頭部は原型を留めていた」という理由で、もともと地蔵が立っていた台座に、頭部をじかに接着してしまった。これが、犯人の望んだ結末なのだろうか?
取材するために大分へ行ったとき(8月8日)、現場にはこの「頭部だけの地蔵」が無残にも佇んでいた。その「地蔵」を見たとき、強烈にギョッとした。
自分には霊感などはまったくないが、その場所に漂う怒りのような殺気を、たしかに感じた。
首だけという異様な形相に、吐き気さえ催し、そして、この原稿を書いているいま、ついに吐いてしまった。
犯人の動機はいまいちよく分からない。単なる変質者かもしれない。犯人のやったことは許す余地などまったくないが、この人の身の安全を、かえって心配してしまった。
取材で得られた情報を総合すると、犯人は地元もしくは近辺の者だ。そして現場を再訪しているはずだ。首だけ地蔵と対峙し、どんな表情をしていたのだろうか。
(ミリオン出版「不思議ナックルズ」掲載)[写真]事件後、警察から戻された石片のうち、頭部を地元の人が、もともとの台座にじかに接着した。台座に首だけが載っているのは異様な光景だ
自殺供養の石地蔵を線路で粉砕
徹底的な現場検証で浮かび上がった犯人像
警察も知らない目撃情報をキャッチ
取材・写真・文/太田宏人
2006年。大分市内の某神社で、境内で暮らしていた多数の野良猫がボーガンか何かで惨殺される事件が起きた。地元の人々は、「若いものの犯行」「若い奴等は」などとウサワをしていたそうだが、この惨劇は、なにか、その後の事件のエピローグを飾るようでもあった。
そして今年(2007年)の7月25日。多くの人が顔をしかめるものの、新聞の第一面を飾るほどでもなく、被害者がいるわけではないが強いて言えば「死者」が被害者になるという、すこし奇妙な事件が、大分市の郊外で発生した。
事件発生は午前6時12分ごろ。大分市元町のJR九大線・古国府(ふるごう)トンネル入り口で、この日の一番列車である大分発日田行き上り普通列車(2両編成)が、大きな石のようなものに衝突し、緊急停車した。
乗員乗客にけがはなかったが、車輌前部が破損した。運転士が調べたところ、現場付近には多数の石片が散乱していたという。
置石である。だが、置石にしては衝突の衝撃が大きく、石の破片も多い。
運転士からの通報を受けた警察が調べると、これは、現場近くに祭られていた石仏の地蔵尊であることが分かった。重量は約20キロだった。
地元民によると、約20年前、受験に失敗した地元の高校卒業生がトンネルの上部から列車に飛び込み自殺をした。地蔵像は、悲嘆にくれる遺族を見かねた地元の婦人達が、自殺者の供養の意味もこめて、トンネルの眼前に建立した「見守り地蔵」だったである。
同じ場所では過去に数度、自殺があった。地元では幽霊トンネルとも囁かれた場所。霊能者によると、トンネルのなかに「いる」そうだ。
置石ならぬ「置き地蔵」の舞台となった場所は、まさに複数の自死が発生したポイントであり、住民は「いたずらにしては限度を超えている」「祟りがあるのでは?」「自殺者が浮かばれない」と、一様に怒りと驚きを隠せない模様である。
大分県警大分中央署は列車往来危険容疑で捜査中だ。署内での正式名称は「線路内における置石(地蔵様)事案」。警察用語では「置石」だが、置石に分類することに躊躇があったのかもしれない。地蔵に「様」をつけるあたり、人情を感じる。
事件の背後に見え隠れする犯人像
周辺では、石仏などに対するいたずらが頻発していた。
現場付近は石仏の多い場所だ。大分市の観光案内版の脇にも石仏が配されているのだが、数年前には古国府トンネル付近の案内板の石仏が蹴り倒されていた。だが、住民たちを驚かせたのは、見守り地蔵から数百メートルも離れていない「岩屋寺石仏」に対するいたずらだった。岩屋寺石仏は平安初期の作といわれる磨崖仏(まがいぶつ)群で国指定の史跡。
事件は昨年12月に発生した。岩屋寺石仏に設置された8躯の石仏と標識に、青色のスプレーペンキがべったりと塗られていたのだ。
被害にあった石仏は、幸いにも磨崖仏ではなかった。付近の寺院が、境内から移設したものだった。
付近の寺の住職らが作業をして、青色のペンキはどうにか落とすことに成功したが、騒動は続いた。今年1月には、近くの県立大分上野丘高校の庭のブロンズ像に金色のスプレーが、7月には、同じく付近の県立芸術短期大学の敷地に隣接する六地蔵にも、青のスプレーがかけられた。同じペンキだったという。
元町の見守り地蔵に対するいたずらも、じつは今回が初めてではない。今年7月上旬、「消えていた」。ある日こつ然と、姿を消していたのだ。
住民が探すと、線路脇の草むらのなかに倒されているのが、7月17日に発見された。地元の人々は地蔵像を元の場所に戻し、先ほどの寺の住職に供養してもらったのだが、25日には、何者かによってついに線路に置かれ、粉砕という結末を迎えたのだった。
石仏等に対する執拗な手口を考えると、同一人物の犯行と推測される。地元では「少年か若い者の仕業だろう」という声が多い。
大分の地元紙「大分合同新聞」も置地蔵事件に触れ、7月28日の朝刊コラムで若者のゲーム感覚での犯行や「祟り」をほのめかしている。
しかし、である。
散歩をしていた人たちの証言によると、芸術短大隣接の六地蔵は、犯行のあった日の午前7時、元町の見守り地蔵は同6時には無事な姿が目撃されている。六地蔵は8時前までにはペンキを塗られ、トンネルでは6時12分ごろには列車が衝突している。
それぞれ、早朝のわずかな時間での犯行ということが分かる。一帯には田畑が多いとはいうものの、住宅街である。朝に散歩をする高齢者も多い。農作業の人たちもいる。
とくに、見守り地蔵のあった場所は、国道10号線から良く見える場所であり、国道の「岩屋寺入口」信号からも遠くない場所。停車中の車内からは、はっきりと見えると思われる。
自殺の「名所」なので(というよりも、近年は変態親父が出没するとかで)、夜は気味悪がって人通りが少ないものの、地蔵の脇を通る細道は、国道の抜け道になっていて、日中は人通りが、けっこうある。朝方は高齢者の散歩も多い。
高校のブロンズ像の一件は、岩屋寺石仏の事件に刺激された若者によるいたずらかもしれない。高校の件は、夜に行なわれた可能性が高いという。上野丘高校では近年、卒業生を装った男が卒業生の家に電話をかけ、個人情報を聞き出すといった事件も発生しているが、これは別件のようだ。
一方、六地蔵や見守り地蔵そして、そのほかの石仏の事件に共通して言えることは、犯行時刻が朝ということ。そんな時間に若者が何かをしていれば目立つだろう。
また、散歩などの地元の人の流れを把握していなければ、犯行は不可能だ。そして、若者特有の「落書き」ではない。岩屋寺の石仏の顔を青で塗りたくった手口は、じつに粘着的だ。
愉快犯にしては、犯行が粘着質すぎる。しかも、逆に言えばこの程度の「いたずら」で愉快になれるものだろうか。
そして、ターゲットは明らかに「石像」だ。愉快犯の対象になるのだろうか。
以上のことを総合すると、犯人は通行人に目撃されても怪しまれない人物、つまり地元の人間でかつ、ある程度信用された者ではないのだろうか。先に紹介した寺院とトラブルを起こしている、またはその寺院に対して嫌がらせをしたい理由のある中年の仕業かもしれない。
実際、聞き込みを続けていると「事件の当日、犬を連れた中年男性が、線路に入ってしきりに何かを探していた」と語る婦人がいた。この男は、何を捜していたのだろうか。
事件の朝、現場周辺では警察が地蔵の破片を拾うなどの現場検証を行った。その騒ぎが落ちついてからの時刻だ。何か、捜すものはあるのだろうか。ふいに胸をよぎった言葉は「犯人は現場に戻る」、それだった。
このいたずらの「罪」の重さ
JR九州によると、同社では車輌前部のパーツ交換を行なった。損害額は約5万7000円。自然災害ではないので、犯人が捕まれば損害賠償を行なうことになるという。乗用車を壁にぶつけて、前部のバンパーを交換するより安い損害額だが、問題は刑事罰のほうだ。
この地蔵様には持ち主らしい持ち主がいないので器物損壊罪が問われるかどうかは不明。一方、線路上に(石仏を含めて)置石をした場合、刑法の「往来を妨害する罪」第125条「往来危険」の罪に問われる。「鉄道もしくはその標識を損壊し、又はその他の方法により、汽車又は電車の往来の危険を生じさせた者は、2年以上の有期刑または20万円以下の罰金」。未遂であっても処罰対象になる。いわゆる未必の故意である。
けが人が出た場合は「傷害罪」が適応され、10年以下の懲役。死人が出ると、罪はもっと重い。同126条「汽車転覆等及び同致死」の第2項目は「死刑または無期懲役」と規定する。
上記は、人の世の裁きだ。だが、この世ならぬ領域の「罪」は、だれが裁くのだろうか。
事件後、検証のために警察が石片を持っていったが、一定期間が過ぎたため、地元住民に返還された。その石片を受け取った地主は、「頭部は原型を留めていた」という理由で、もともと地蔵が立っていた台座に、頭部をじかに接着してしまった。これが、犯人の望んだ結末なのだろうか?
取材するために大分へ行ったとき(8月8日)、現場にはこの「頭部だけの地蔵」が無残にも佇んでいた。その「地蔵」を見たとき、強烈にギョッとした。
自分には霊感などはまったくないが、その場所に漂う怒りのような殺気を、たしかに感じた。
首だけという異様な形相に、吐き気さえ催し、そして、この原稿を書いているいま、ついに吐いてしまった。
犯人の動機はいまいちよく分からない。単なる変質者かもしれない。犯人のやったことは許す余地などまったくないが、この人の身の安全を、かえって心配してしまった。
取材で得られた情報を総合すると、犯人は地元もしくは近辺の者だ。そして現場を再訪しているはずだ。首だけ地蔵と対峙し、どんな表情をしていたのだろうか。
(ミリオン出版「不思議ナックルズ」掲載)[写真]事件後、警察から戻された石片のうち、頭部を地元の人が、もともとの台座にじかに接着した。台座に首だけが載っているのは異様な光景だ
2008年4月17日木曜日
(墓81)日伯司牧協会の日本巡礼団
日伯司牧協会の日本巡礼団
長崎で中村神父の足跡たどる
【長崎発・太田宏人】日伯司牧協会(青木ファン代表=バチス勲・神父)では、ブラジル初のカトリック布教使として邦人に尽くし、「生ける聖者」とあがめられた中村ドミンゴス・長八神父を、尊者もしくはその上位の福者に列叙するようローマ法王庁に働きかけている。
同協会ではその運動の一環として、中村神父の出身地である長崎県五島を目指す巡礼の旅を続けている。青木神父やブラスヴィア旅行社(聖市)の石井久順社長らをはじめとする巡礼団は、豊臣秀吉によって処刑された「日本二十六聖人」が歩かされた京都から長崎への道を中心にたどりながら、このほど長崎入りした。
長崎では原爆投下に関するさまざまな施設を訪問。かつては「東洋一の大聖堂」と称えられたものの原爆で全壊した浦上天主堂(戦後再建)などで祈りをささげた。
青木神父は「移住百周年を機に中村神父が列福されることには大変な意義があると思います」と熱く語った。
中村神父は、隠れキリシタンの子孫。教皇庁からブラジルへの布教辞令を受け、一九二三年、五八歳で海を渡った。
2008年4月8日「サンパウロ新聞」掲載
(写真:長崎市永井隆記念館前で日伯司牧協会の巡礼団)
2007年12月22日土曜日
(墓80)神々の混沌、人々の葛藤、弥栄への祈りを歌ふ涼恵さん
神々の混沌、人々の葛藤、弥栄への祈りを歌ふ涼恵さん
ライヴハウスには言霊が満ちてゐた太田宏人・記
彼女が唄ひ出すと、その場の空気が一変した。低音と高音を駆使する伸びやかな唄声に、聴衆は瞬時に魅了されてしまったやうだ。
声質が良く、歌唱の技巧に優れただけの歌手ならいくらでもゐる。だが、圧倒的な存在感、魂を揺さ振るメロディーと歌詞、ときに明るくときに暗く、聴く者の存在を抱き止めるやうな唄ひ手は珍しい。歌唱の姿が祈るがごとき印象を与へる歌手は稀有だ。
「言霊に祝福された唄ひ手」
これが、涼恵さんのステージを拝見した時の第一印象であった。彼女のライヴは言霊のシャワーであった。
◎ ◎
十一月二十五日(日)、四谷天窓.comfort(東京都新宿区高田馬場)で行はれたスタヂオ言霊の特別公演「時代(とき)の風」を観た。脚本・構成は松田光輝さん。歌唱は神戸市の小野八幡神社権禰宜でもある涼恵さん。すべての曲が彼女の作詞作曲だった。
菊池智子さんのピアノ、松田さんの一人芝居(朗読)と涼恵さんの唄が絡み合ひながら、ストーリーが進行した。
以下、涼恵さんの唄について書かう。彼女の音楽世界は豊かな二律背反を奏でる。たとへるならば神と人、自然と人為、和魂と荒魂、優しさと厳しさ、光と闇。これらが同居し、混沌を極めるのだが、時として闇の側面が勝るやうだ。これは彼女の内なる闇なのかもしれない。だがその闇のなかに、希望や救済、人の世の弥栄への祈りを感じたのは筆者だけではあるまい。
【この世には良いことも悪いこともたくさんある。幸運に見放されてゐるやうな時もあるだらう。だが、生きてきたこと、生きてゐること、生きてゆくことは、当たり前のやうに素晴らしい】
彼女の闇は、我々にエールを送る温かい闇だった。
◎ ◎
芝居と歌唱、ピアノの生演奏といったそれぞれのパーツの練度は悪くはなかったと思ふ。ただ、演出として狙ったのか、各者がそれぞれの情熱と才能を無計画にぶつけ合った結果なのかは不明だが、三者の放つ存在感は凸凹であった。その不揃ひさの妙味は有名歌手や役者の公演では得られまい。インディーズの醍醐味であらう。今後は、三者が同じステージに立つことで生まれる相乗効果のさらなる輝きに期待したい。
(おほた・ひろひと=フリーライター)
「神社新報」平成19年12月17日掲載
2007年12月20日木曜日
(墓79)ペルー慈恩寺の100周年記念式典/麻生太郎氏が祝辞
ペルー慈恩寺の100周年記念式典
麻生元外相が祝辞寄せる
報告と未来への課題
太田宏人
(サンパウロ新聞:2007年11月22日掲載)
南米最古の仏教寺院である泰平山慈恩寺(ペルー共和国リマ県カニエテ郡/無住)で11月3日(現地時間)、同寺の創立100周年を記念する式典が行われた。主催は慈恩寺有志の会。
式ではまず寺誌プレートの除幕式があり、南米とゆかりの深い麻生太郎元外務大臣から寄せられた祝辞が読み上げられた。元外相はペルーの日系人および慈恩寺の歴史を振り返りつつ、「日系の皆様が今後とも力と心を合わせ、この移民の聖地の中心である慈恩寺を永久に護持されんことを冀う」と結んだ。
祝辞の代読は地元ペルーでも屈指の金融機関であるKYODAIグループのハビエル・クズマ代表が行った。同グループは今回、寺誌プレートおよび歴住の写真額を新調する費用を負担した。
除幕式後、仏式法要が厳修された。法要には読経師と呼ばれる在野の宗教家の徳田義太郎(ロベルト)師のほか、ペルー人で初めて僧侶になったカスティーヤ仙玄師らが参加し、曹洞宗の法式だった。
慈恩寺100周年への参加を目的に日本からやってきたというある日本人は「慈恩寺内は空気が違う。堂外は南米だが、堂内は日本。しかも、独特の神聖さがある」と前置きし、「式典参加者は約30名で小規模なものだったが、慰霊の心がこもり温かい式だった」と感想を述べていた。
法要後、地元の互恵組織であり、慈恩寺の維持管理を行うカニエテ日系協会のミゲル・グスクマ会長があいさつ。参加者への謝意を表し、「これからも各方面と連携し、微力ながらもお寺を守っていきたい」と語った。
その後、参加者に食事が振る舞われ、慈恩寺有志の会が用意したおにぎりや太巻きなどの手料理を食べながら楽しい一時を過ごした。式にはリマ市の日系学校「ヒデヨ・ノグチ校」の中学生4人と教師1人が招待された。生徒の一人は「おにぎり食べるのは久しぶり。とてもおいしい」と満足げだった。
慈恩寺は、明治40年に同郡サンタ・バルバラ耕地内に建てられた。二度の移転を経て現在に至る。現在の建物の落成は1977年。1992年以降は無住である。ペルー日系人協会および、その支援を受けるカニエテ日系協会が維持管理に当たっている。
慈恩寺有志の会はペルーと日本にメンバーがいる在家のグループであり、超宗教で超宗派。慈恩寺は曹洞宗の寺籍と言われるが、実質的に曹洞宗と慈恩寺の関係は切れている。その証拠に、盆と彼岸の法要は、日系人協会に後押しされた浄土真宗本願寺派が、曹洞宗と交代で行うという異常事態になっている。
■大使館は不参加
慈恩寺有志の会では式典開催にあたり、リマの総領事館(大使館と併設)に大使もしくは公使等の参加を呼びかけたが、門前払いにあった。メールの返信文は「ご案内いただきました慈恩寺創立100周年祈念行事に関しまして、ご趣旨は理解申し上げますが、総領事館または総領事館館員として今回のプログラムに参加することは差し控えたく存じますのでご理解願います」(原文ママ)。
無論、これまでの慈恩寺の行事には大使館もしくは総領事館の参加はあった。現在の慈恩寺に移転した際は、小関領事(当時)が改築の音頭を取ったうえ、慈恩寺の看板は木本大使(同)の揮毫というふうに、慈恩寺と日本の在外公館の結びつきは強い。
式典前日、大使館に電話かけると「そんな話は聞いていない」と驚いた様子で、数時間後、領事館から電話がかかってきた。電話の主が門前払いをした人物だった。「じつは、赴任して数ヶ月。慈恩寺のことは良く知らなかった」という。
リマの日系人や在留邦人の社会では大使館・総領事館の批判は最大のタブーといわれる。サンパウロでは想像もできないことだが、リマはこのような出鱈目がまかり通る世界である。
ペルー日系人協会も参加に及び腰であった。これは、同協会と曹洞宗の関係が悪いことに原因がある。今回、主催した慈恩寺有志の会は超宗派で超宗教である。慈恩寺は近年、浄土真宗本願寺派と曹洞宗が「同居」する状態。その原因は日系人協会が介入したことによる政治的な要素が強い。また、信者団体や僧侶がいないことも影響している。
そこで慈恩寺有志の会では両宗派に呼びかけて合同での式典を提唱したが、浄土真宗本願寺派は8月に独自に百周年の法要をやってしまった(寺の歴史さえ知らずに)。曹洞宗は教団としては不参加であったが、有志の僧侶が参加することとなった。
この僧侶は、「有志の会」の制止を聞かずに曹洞宗をアピールしすぎた結果、日系人協会は「曹洞宗の行事」と誤解してしまったらしい。協会の関係者によると、式典の当日に曹洞宗の名前でリマの日秘文化会館のホールが借りられていたという。むろん、主催者である「有志の会」はそのようなことは誰も知らなかった。
それでも、協会の何人かの幹部は参加を希望していたのだ。が、「領事館も行かないのでは」と、最後は辞退してしまった。
領事館の人間は、不参加の理由を「日系人協会が参加しないのであれば」「日系人協会が公認しない行事であれば」などといっていたが、本末転倒・責任転嫁もはなはだしい限りであろう。だいいち、近年の慈恩寺をめぐる騒動は、信徒団体でもない日系人協会が、自らの規約に反して宗教に絡みすぎた結果である。協会が正しいとは限らない。協会が道を踏み外した場合でも、公館は、協会公認の行事であれば出席するのだろうか。
僧侶といい協会といい在外公館といい、慈恩寺のことを真剣に考えることは今後もないのだろうか。先人の霊が泣いている。
[写真:法要で読経する徳田師(中央)とカスティーヤ師(左)]

麻生元外相による慈恩寺100周年への祝辞(全文)
明治32年、つまり1899年、南米へ向けた初の移民団が日本からペルーに到着し、今年ですでに108年の歳月が流れました。ペルーの日系社会は、南米の日系社会のパイオニアであり、これまでの歴史は苦難の連続であったことを思うと、こんにち、皆様が築かれた社会的地位の高さは驚異というほかはなく、同じ血を持つ同胞として、非常に誇りに思う次第です。
日系の世代交代は進みましたが、皆様がいまでも日本の心を失っていないことを、私は嬉しく思います。現在でも、日系のご家庭には仏壇が祀られるばかりか、泰平山慈恩寺という立派なお寺が大切に護られ、毎年欠かさず先没者の慰霊法要が続けられてきたという事実に、身の震えるような深い感銘を覚えます。これはひとえに、皆様の先人への感謝の念の表れではないかと思います。日本に住む日本人が失ってしまった大切な気持ちを、皆様がお持ちになっていると言っても過言ではないでしょう。
近年、慈恩寺の歴史が克明に調べられるにおよび、このお寺が南米大陸で最古の仏教寺院であることが判明しました。歴史を紐解けば、いまをさかのぼる100年前に、上野泰庵という禅宗の僧侶の指導のもと、当時は決して裕福とはいえなかった移民の方々がわずかずつ浄財をあつめ、サンタ・バルバラにお寺を建立したのが明治40年、西暦では1907年でした。創建当初から、お寺は宗教宗派に関係なく、多くの日本人が集まったそうです。
お寺では、志半ばで病に倒れた同胞の霊を慰めるほか、お寺の隣には、これまた南米最古となる日本人小学校が建てられ、歴代のお坊さんが教壇に立ちました。
古い写真を見ますと、慈恩寺の建築は純和風で、日本庭園も備えていたようです。遠く遥かな異国にあって、この場所は移民の方たちにとっての心のふるさとだったのでしょう。カサ・ブランカ耕地には立派な慰霊塔の建つ日本人墓地もあります。また、慈恩寺にはペルー全国の日本人墓地から集められた土が合祀されています。かつて「カニエテは移民の聖地」と呼ばれていたそうですが、まさにその聖地の中心が慈恩寺でしょう。
お寺は二度の移転を経て、現在の場所にあります。今回、慈恩寺の略史を刻んだプレートを設置するに当たり、パドリーノの栄誉を賜りましたことに、心より御礼申し上げます。あいにく公務のため、プレートの除幕式には欠席しますが、これを機に南米の日系の皆様との絆をさらに深めることができますことに鳴謝申し上げます。
最後になりましたが、皆様が今後とも力と心を合わせ、この移民の聖地の中心である慈恩寺を永久に護持されんことを、冀うものであります。
平成19年11月3日
日本国 衆議院議員 麻生太郎
記事の墓場WEBサイト
http://www.geocities.jp/tontocamata/
麻生元外相が祝辞寄せる
報告と未来への課題
太田宏人
(サンパウロ新聞:2007年11月22日掲載)
南米最古の仏教寺院である泰平山慈恩寺(ペルー共和国リマ県カニエテ郡/無住)で11月3日(現地時間)、同寺の創立100周年を記念する式典が行われた。主催は慈恩寺有志の会。
式ではまず寺誌プレートの除幕式があり、南米とゆかりの深い麻生太郎元外務大臣から寄せられた祝辞が読み上げられた。元外相はペルーの日系人および慈恩寺の歴史を振り返りつつ、「日系の皆様が今後とも力と心を合わせ、この移民の聖地の中心である慈恩寺を永久に護持されんことを冀う」と結んだ。
祝辞の代読は地元ペルーでも屈指の金融機関であるKYODAIグループのハビエル・クズマ代表が行った。同グループは今回、寺誌プレートおよび歴住の写真額を新調する費用を負担した。
除幕式後、仏式法要が厳修された。法要には読経師と呼ばれる在野の宗教家の徳田義太郎(ロベルト)師のほか、ペルー人で初めて僧侶になったカスティーヤ仙玄師らが参加し、曹洞宗の法式だった。
慈恩寺100周年への参加を目的に日本からやってきたというある日本人は「慈恩寺内は空気が違う。堂外は南米だが、堂内は日本。しかも、独特の神聖さがある」と前置きし、「式典参加者は約30名で小規模なものだったが、慰霊の心がこもり温かい式だった」と感想を述べていた。
法要後、地元の互恵組織であり、慈恩寺の維持管理を行うカニエテ日系協会のミゲル・グスクマ会長があいさつ。参加者への謝意を表し、「これからも各方面と連携し、微力ながらもお寺を守っていきたい」と語った。
その後、参加者に食事が振る舞われ、慈恩寺有志の会が用意したおにぎりや太巻きなどの手料理を食べながら楽しい一時を過ごした。式にはリマ市の日系学校「ヒデヨ・ノグチ校」の中学生4人と教師1人が招待された。生徒の一人は「おにぎり食べるのは久しぶり。とてもおいしい」と満足げだった。
慈恩寺は、明治40年に同郡サンタ・バルバラ耕地内に建てられた。二度の移転を経て現在に至る。現在の建物の落成は1977年。1992年以降は無住である。ペルー日系人協会および、その支援を受けるカニエテ日系協会が維持管理に当たっている。
慈恩寺有志の会はペルーと日本にメンバーがいる在家のグループであり、超宗教で超宗派。慈恩寺は曹洞宗の寺籍と言われるが、実質的に曹洞宗と慈恩寺の関係は切れている。その証拠に、盆と彼岸の法要は、日系人協会に後押しされた浄土真宗本願寺派が、曹洞宗と交代で行うという異常事態になっている。
■大使館は不参加
慈恩寺有志の会では式典開催にあたり、リマの総領事館(大使館と併設)に大使もしくは公使等の参加を呼びかけたが、門前払いにあった。メールの返信文は「ご案内いただきました慈恩寺創立100周年祈念行事に関しまして、ご趣旨は理解申し上げますが、総領事館または総領事館館員として今回のプログラムに参加することは差し控えたく存じますのでご理解願います」(原文ママ)。
無論、これまでの慈恩寺の行事には大使館もしくは総領事館の参加はあった。現在の慈恩寺に移転した際は、小関領事(当時)が改築の音頭を取ったうえ、慈恩寺の看板は木本大使(同)の揮毫というふうに、慈恩寺と日本の在外公館の結びつきは強い。
式典前日、大使館に電話かけると「そんな話は聞いていない」と驚いた様子で、数時間後、領事館から電話がかかってきた。電話の主が門前払いをした人物だった。「じつは、赴任して数ヶ月。慈恩寺のことは良く知らなかった」という。
リマの日系人や在留邦人の社会では大使館・総領事館の批判は最大のタブーといわれる。サンパウロでは想像もできないことだが、リマはこのような出鱈目がまかり通る世界である。
ペルー日系人協会も参加に及び腰であった。これは、同協会と曹洞宗の関係が悪いことに原因がある。今回、主催した慈恩寺有志の会は超宗派で超宗教である。慈恩寺は近年、浄土真宗本願寺派と曹洞宗が「同居」する状態。その原因は日系人協会が介入したことによる政治的な要素が強い。また、信者団体や僧侶がいないことも影響している。
そこで慈恩寺有志の会では両宗派に呼びかけて合同での式典を提唱したが、浄土真宗本願寺派は8月に独自に百周年の法要をやってしまった(寺の歴史さえ知らずに)。曹洞宗は教団としては不参加であったが、有志の僧侶が参加することとなった。
この僧侶は、「有志の会」の制止を聞かずに曹洞宗をアピールしすぎた結果、日系人協会は「曹洞宗の行事」と誤解してしまったらしい。協会の関係者によると、式典の当日に曹洞宗の名前でリマの日秘文化会館のホールが借りられていたという。むろん、主催者である「有志の会」はそのようなことは誰も知らなかった。
それでも、協会の何人かの幹部は参加を希望していたのだ。が、「領事館も行かないのでは」と、最後は辞退してしまった。
領事館の人間は、不参加の理由を「日系人協会が参加しないのであれば」「日系人協会が公認しない行事であれば」などといっていたが、本末転倒・責任転嫁もはなはだしい限りであろう。だいいち、近年の慈恩寺をめぐる騒動は、信徒団体でもない日系人協会が、自らの規約に反して宗教に絡みすぎた結果である。協会が正しいとは限らない。協会が道を踏み外した場合でも、公館は、協会公認の行事であれば出席するのだろうか。
僧侶といい協会といい在外公館といい、慈恩寺のことを真剣に考えることは今後もないのだろうか。先人の霊が泣いている。
[写真:法要で読経する徳田師(中央)とカスティーヤ師(左)]
麻生元外相による慈恩寺100周年への祝辞(全文)
明治32年、つまり1899年、南米へ向けた初の移民団が日本からペルーに到着し、今年ですでに108年の歳月が流れました。ペルーの日系社会は、南米の日系社会のパイオニアであり、これまでの歴史は苦難の連続であったことを思うと、こんにち、皆様が築かれた社会的地位の高さは驚異というほかはなく、同じ血を持つ同胞として、非常に誇りに思う次第です。
日系の世代交代は進みましたが、皆様がいまでも日本の心を失っていないことを、私は嬉しく思います。現在でも、日系のご家庭には仏壇が祀られるばかりか、泰平山慈恩寺という立派なお寺が大切に護られ、毎年欠かさず先没者の慰霊法要が続けられてきたという事実に、身の震えるような深い感銘を覚えます。これはひとえに、皆様の先人への感謝の念の表れではないかと思います。日本に住む日本人が失ってしまった大切な気持ちを、皆様がお持ちになっていると言っても過言ではないでしょう。
近年、慈恩寺の歴史が克明に調べられるにおよび、このお寺が南米大陸で最古の仏教寺院であることが判明しました。歴史を紐解けば、いまをさかのぼる100年前に、上野泰庵という禅宗の僧侶の指導のもと、当時は決して裕福とはいえなかった移民の方々がわずかずつ浄財をあつめ、サンタ・バルバラにお寺を建立したのが明治40年、西暦では1907年でした。創建当初から、お寺は宗教宗派に関係なく、多くの日本人が集まったそうです。
お寺では、志半ばで病に倒れた同胞の霊を慰めるほか、お寺の隣には、これまた南米最古となる日本人小学校が建てられ、歴代のお坊さんが教壇に立ちました。
古い写真を見ますと、慈恩寺の建築は純和風で、日本庭園も備えていたようです。遠く遥かな異国にあって、この場所は移民の方たちにとっての心のふるさとだったのでしょう。カサ・ブランカ耕地には立派な慰霊塔の建つ日本人墓地もあります。また、慈恩寺にはペルー全国の日本人墓地から集められた土が合祀されています。かつて「カニエテは移民の聖地」と呼ばれていたそうですが、まさにその聖地の中心が慈恩寺でしょう。
お寺は二度の移転を経て、現在の場所にあります。今回、慈恩寺の略史を刻んだプレートを設置するに当たり、パドリーノの栄誉を賜りましたことに、心より御礼申し上げます。あいにく公務のため、プレートの除幕式には欠席しますが、これを機に南米の日系の皆様との絆をさらに深めることができますことに鳴謝申し上げます。
最後になりましたが、皆様が今後とも力と心を合わせ、この移民の聖地の中心である慈恩寺を永久に護持されんことを、冀うものであります。
平成19年11月3日
日本国 衆議院議員 麻生太郎
記事の墓場WEBサイト
http://www.geocities.jp/tontocamata/
2007年11月30日金曜日
(墓78)ペルーの呪術師を取材/呪いで死にかけた!

取材・文・写真/太田宏人
ペルーには、クランデーロという土俗的な呪術系の治療師がいる。
胃の痛みや肩こりの治療はもちろん、失せ物探し、悪霊払い、依頼すれば呪殺までやってくれるそうだ。クランデーロというのは、(ペルーの国語の)スペイン語辞書には「もぐりの医者」などと出ているが、言葉の原意は「治療する者」。
シャーマン的な能力を駆使して治療を行なうという彼らは、ペルーでは市民権を得ている。
私は数年、ペルーに住んでいたのだが、長女の夜泣きがひどいときに、妻(日系人)がクランデーロのところに長女を連れて行った。すると、「邪眼に見られたからだ」と診断したという。そして邪眼よけのミサンガを渡し、生卵に邪眼の霊障を乗り移らせる方法を教えてくれた。
それは、生卵を赤ちゃんの顔の上で十字に動かすというものだった。
生卵は遠慮したが、ミサンガはつけさせた。ちなみに、行きつけの小児科の先生は、「泣いたらお風呂よ」と言っていた。
ミサンガの効果かお風呂の効果か分からないが、多少は夜泣きは改善したのを覚えている。
それはさておき、南米にはアフリカ系の土俗宗教が大なり小なり入りこみ、スペイン征服以前の宗教と混淆しているというわけだ。
ペルーでもナンバー1、2というクランデーロが仮名・O氏だ。一見、ただのおっさんだが、彼は警察の捜査にも協力し、フジモリ元大統領側近の家の「かくし部屋」を透視したことでも知られる。警察官からの信頼は厚く、「強盗との銃撃戦で弾が外れるように」というお祓いの申し込みが殺到しているとか。
今回、O氏を取材した。日本のメディアは初めてだ。彼の家は、リマ市郊外にあった。
体験取材である。そこで、ペルーに住む日本人の女性3人と一緒に行った。彼女たちはペルー人と結婚している人たち。むろん、O氏には彼女たちの事情を一切教えていないのだが、タロット占いで、彼女たちと、それぞれのダンナやダンナの家族との関係、日本にいる家族のことまで言い当ててしまった。ただし、人名を的中できるのはペルー国籍者に限るようだった。
霊視はほとんどあたっていた。私も、過去に関係を持った女性や裏切った女性の風貌、人種・国籍まで全部当てられて、冷や汗が出た。そのときに聞いた予言も、だいたい外れていなかった。
この霊障相談を撮影した。しかし多くの写真が真黒く感光していた。他の取材ではこんなことは、後にも先にもない。
悪霊落としとハト除霊
次は悪霊落としである。これは私が体験した。担当はO氏の息子とお仲間2名。真っ暗で薬草臭くて湿気がむんむんする部屋に通され、目隠しをされる。そして、いきなり流される大音量の音楽。3人の男たちが金属の棒で、やはり鉄か何かを叩きつけながら、私の周囲を狂ったように踊り始める。そして「出ていけ、この糞野郎!」とかなんとか叫びながら、私の頭のすぐ近くで鉄を叩きく。そして、口に含んだ薬草のエキス(?)をブーッと、部屋中に噴出するのだ。要するに、私の体内にいる「なにか」を体外へ追い出すということらしい。
悲しいかな、文明に毒された身。ただの苦痛な1時間でしかなかった。が、精神が健康なペルー人だと、トランス状態になるのかもしれない。
そして次に、ハトを使った霊障除去が始まった。これも私が体験。なにかの呪文を唱えた息子氏はいきなり、生きた野鳩の胸を裂き、その裂け目を私の頭にこすり付けたのだ。
べちゃ。
内臓物が、凄まじく臭う。それより、あふれる血もしくは内臓液、またはその両方が、顔面や首筋に垂れてくるのだが、それが温かいのだ。変な意味で「いのち」を実感する。
次第にシャツやズボンにも垂れてくる。何より、まだ動いている心臓の鼓動が頭皮に響くのが、なんともいえない感覚だ。
「おまえの惚れっぽさは、憑依している霊が原因だ。こうでもしなければ治らない。悪い霊をハトの体に沁みこませるのだ」と説明しながら、ぐいぐいとハトの体の開口部を私の頭部になすりつける息子氏。惚れっぽさは霊の仕業か? などと疑念も浮かんだが、切り裂かれた2羽のハトの犠牲に報いるためにも、ここは素直に治療を受けた。
2羽のハラワタをたっぷり頭皮になすりつけて、治療は完了。
「24時間、飯は食うな。酒も女もタバコも駄目だ。ハトの死体はおまえが川に向かって、後ろ手で投げ捨てろ。さもなくば、呪われるぞ」と、息子氏に命じられた。
ところが、宿舎に戻る途中、悲しいかな川がなかった。仕方なく海に捨てたのだが…。
数日後、リマの中心地で突然、私の乗っていたタクシーを挟んで警官と強盗団の銃撃が始まった。窓ガラスはすべて吹き飛び、車体は穴ぼこだらけ。奇跡的にケガはなかったが、これが「呪い」なのだろうか。惚れっぽさも、変化なし。やはり、ハトの死骸を海に捨てたからか。
かわいそうなのは、巻き添えを食らったタクシーの運ちゃんかもしれない。
<写真>面倒くさそうな表情の呪術師(息子のほう)
ミリオン出版「ワールドストリートニュース」(2007)掲載
2007年9月7日金曜日
(墓77)2003年春、SARS流行期。香港へ行った
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自殺? そんなわけがあるはずない
五月二二日から二四日まで香港および澳門(マカオ)へ、取材に行った。
「香港へ行く」ということを、「自殺行為」と捉えた知人も、周囲には何人かいた。滞在期間中の二三日には、世界保健機構(WHO)が香港(および広東省)に対する「渡航延期勧告」を解除したが、日本では現在でも「香港へ行く」ことは、危険行為とみなされている。
だが実際には、香港の人々は日常の生活を送っていた。患者からの飛沫感染対策で、地下鉄内やバスの車内、駅など、混雑もしくは密閉された公共スペースではマスクをつける人が多かった。しかし、つけてない人もいた。なお、日本~香港への往復はノースウエスト航空だったが、乗務員はマスクをしていなかった。
マスクをつける/つけないという泡沫的議論はともかく、香港は活きていた。通常どおりに子どもは生まれ、老いた者は死んでいった。人々は働き、経済は動いていた。
夕刻、次のインタビューまでに時間があまり、澳門行きのフェリー埠頭の隅で、船の出入りや釣り糸を垂れる人たちを見ていた。後ろのベンチでは若い二人の中学生の男女がじゃれあっていた。放心したように海を見ている人たちもたくさんいた。本を読んでいるサラリーマンもいた。むろん、感染経路が明瞭に判明され、患者との濃密な接触や飛沫感染を防げば、日常生活には支障はない病気だという認識が香港において広まりつつある時期でもあった。
たしかに、未知の伝染病は原始的で本能的な恐怖を我々に与えるとはいえ、SARSアウトブレイク(爆発的な感染拡大)の張本人はウイルスそのものではない。マスコミだ。“感染地帯”の人々がマスクを着用した写真が配信されれば、「あそこの人たちは皆、マスク着用か」と思いがちだ。絵になる写真ばかりを報道したマスコミに非がある。「地下鉄からは人が消えた」などの一般的ではない特殊な事例を強調し、いたずらに恐怖を煽ったのは、だれか。そして、それを鵜呑みにしたのは、だれか。
在外公館、ここでも不評? SARSで露呈、香港総領事館の機能不全
重症急性呼吸器症候群(新型肺炎/SARS)が集団発生した香港で、在住の日本人(在港邦人)たちは、在香港日本国総領事館に対する不信を強めている。
その原因は、SARS騒動への総領事館の対応の不味さだ。たとえば四月の上旬、外務省福利厚生室の医務環が香港に臨時で出張し、「個別相談」を行うことになった。が、案内が直前になったうえ、「広報が徹底していなかった」(在港邦人)。しかも当初は、「御相談を希望される方が多い場合は、お断りすることがあります」(在香港総領事館のホームページより)という不誠実なものだった。
さらに、SARSに関する説明会の開催が四月九日に急遽決定したものの、会場は一〇〇人程度しか収容できない香港日本人倶楽部「松の間」だった(在港邦人は約二万人)。さらに「座席数が限られておりますので、希望者多数の場合には、入場を制限させて頂くこともあります」(同上ホームページ)という、あいかわらずの“切り捨て”姿勢が目立つ。はじめからこんなスタンスなので、当然、広報も行き届いていない。当日集まったのは、領事館のホームページを見た人だけが中心。それでも数百人が集まった。会場に収容できない。そこで、説明会を計四回に増やした。当初は、午前と午后に一回ずつだった。
当日の医務官の説明も「推測に基づく発言ばかりで、かえって不安になった」(参加者)というもの。さらに、会場の選択ミスは領事館の責任であるはずなのに、説明会の担当者は、最終回において参加者を前に「私はもう、同じことを三回も喋っている。疲れてます」などと暴言を吐いている。
「総領事館は、これまでも広報が不得手だった。在港邦人全体への連絡体制も確立させていないし、する気もないようだ」と、香港在住一三年目の男性が憤慨する。今回のような“非常時”でも、日曜日は完全休館という下駄の高さ。これでは紛争やテロ、大規模災害などが香港で発生しても、邦人の安否確認など望めない。
これは、香港だけのケースなのだろうか。
(2003年に書いた記事。某誌にて不採用、某誌にて採用)
追記。
香港の邦系企業の駐在員の家族は、今秋のSARS流行をうけて、
いっせいに日本へ帰国したが、
一時保育などでは、「香港帰り」の子どもの預かりを拒否する
保育園もあった。
実際わたし自身、自分の子どもが通う保育園では、
送り迎えのときに「香港行ってました」とは
言えない雰囲気だった。
自殺? そんなわけがあるはずない
五月二二日から二四日まで香港および澳門(マカオ)へ、取材に行った。
「香港へ行く」ということを、「自殺行為」と捉えた知人も、周囲には何人かいた。滞在期間中の二三日には、世界保健機構(WHO)が香港(および広東省)に対する「渡航延期勧告」を解除したが、日本では現在でも「香港へ行く」ことは、危険行為とみなされている。
だが実際には、香港の人々は日常の生活を送っていた。患者からの飛沫感染対策で、地下鉄内やバスの車内、駅など、混雑もしくは密閉された公共スペースではマスクをつける人が多かった。しかし、つけてない人もいた。なお、日本~香港への往復はノースウエスト航空だったが、乗務員はマスクをしていなかった。
マスクをつける/つけないという泡沫的議論はともかく、香港は活きていた。通常どおりに子どもは生まれ、老いた者は死んでいった。人々は働き、経済は動いていた。
夕刻、次のインタビューまでに時間があまり、澳門行きのフェリー埠頭の隅で、船の出入りや釣り糸を垂れる人たちを見ていた。後ろのベンチでは若い二人の中学生の男女がじゃれあっていた。放心したように海を見ている人たちもたくさんいた。本を読んでいるサラリーマンもいた。むろん、感染経路が明瞭に判明され、患者との濃密な接触や飛沫感染を防げば、日常生活には支障はない病気だという認識が香港において広まりつつある時期でもあった。
たしかに、未知の伝染病は原始的で本能的な恐怖を我々に与えるとはいえ、SARSアウトブレイク(爆発的な感染拡大)の張本人はウイルスそのものではない。マスコミだ。“感染地帯”の人々がマスクを着用した写真が配信されれば、「あそこの人たちは皆、マスク着用か」と思いがちだ。絵になる写真ばかりを報道したマスコミに非がある。「地下鉄からは人が消えた」などの一般的ではない特殊な事例を強調し、いたずらに恐怖を煽ったのは、だれか。そして、それを鵜呑みにしたのは、だれか。
在外公館、ここでも不評? SARSで露呈、香港総領事館の機能不全
重症急性呼吸器症候群(新型肺炎/SARS)が集団発生した香港で、在住の日本人(在港邦人)たちは、在香港日本国総領事館に対する不信を強めている。
その原因は、SARS騒動への総領事館の対応の不味さだ。たとえば四月の上旬、外務省福利厚生室の医務環が香港に臨時で出張し、「個別相談」を行うことになった。が、案内が直前になったうえ、「広報が徹底していなかった」(在港邦人)。しかも当初は、「御相談を希望される方が多い場合は、お断りすることがあります」(在香港総領事館のホームページより)という不誠実なものだった。
さらに、SARSに関する説明会の開催が四月九日に急遽決定したものの、会場は一〇〇人程度しか収容できない香港日本人倶楽部「松の間」だった(在港邦人は約二万人)。さらに「座席数が限られておりますので、希望者多数の場合には、入場を制限させて頂くこともあります」(同上ホームページ)という、あいかわらずの“切り捨て”姿勢が目立つ。はじめからこんなスタンスなので、当然、広報も行き届いていない。当日集まったのは、領事館のホームページを見た人だけが中心。それでも数百人が集まった。会場に収容できない。そこで、説明会を計四回に増やした。当初は、午前と午后に一回ずつだった。
当日の医務官の説明も「推測に基づく発言ばかりで、かえって不安になった」(参加者)というもの。さらに、会場の選択ミスは領事館の責任であるはずなのに、説明会の担当者は、最終回において参加者を前に「私はもう、同じことを三回も喋っている。疲れてます」などと暴言を吐いている。
「総領事館は、これまでも広報が不得手だった。在港邦人全体への連絡体制も確立させていないし、する気もないようだ」と、香港在住一三年目の男性が憤慨する。今回のような“非常時”でも、日曜日は完全休館という下駄の高さ。これでは紛争やテロ、大規模災害などが香港で発生しても、邦人の安否確認など望めない。
これは、香港だけのケースなのだろうか。
(2003年に書いた記事。某誌にて不採用、某誌にて採用)
追記。
香港の邦系企業の駐在員の家族は、今秋のSARS流行をうけて、
いっせいに日本へ帰国したが、
一時保育などでは、「香港帰り」の子どもの預かりを拒否する
保育園もあった。
実際わたし自身、自分の子どもが通う保育園では、
送り迎えのときに「香港行ってました」とは
言えない雰囲気だった。
2007年9月4日火曜日
(墓76)鬼木市次郎さん、死去
ブラジルに鍼灸マッサージ学校設立の功労者
両親はペルー移民
鍼灸マッサージ師で教育家、事業家でもあった鬼木市次郎さんが3月26日、療養先の福岡県柳川市で死去。94歳だった。死因は老衰。密葬を済ませ、葬儀はブラジルで行なわれる予定。
鬼木さんは両親がペルー移民。父親(伝次郎)の墓はリマ市のエル・アンヘル墓地に、母親(カメ)の墓はリマ市北方のサン・ニコラス墓地にそれぞれある。
鬼木さんの両親は鬼木さんを残してペルーで働いた。いつかは鬼木さんを呼ぶつもりであったが、果たせずしてペルーで亡くなった。
鬼木さんは福岡で育ったが、小学生のときに視力が0・03まで低下。1932(昭和7)年、柳川盲学校を卒業。その後、中国大陸で鍼灸マッサージで成功するも、敗戦により、妻子と裸一貫で帰国。鍼灸マッサージの治療院やレジャー施設を経営し、東京に学校法人鬼木医療学園・国際鍼灸専門学校を建設。
1973(昭和48)年には父母の眠るペルーを初めて訪問。感激の墓参を果たしたほか、鍼灸マッサージの無料治療を行い、好評を博した。
鬼木さんの胸中には次第に「南米の視覚障害者に自活の道を与えたい。それには鍼灸マッサージの学校をつくる」という夢が膨らんでいった。
1990年、ブラジルのサンパウロに鬼木東洋医学専門学校を設立。盲人教育に貢献するとともに、ブラジルでの東洋医学の普及に大きな役割を果たしている。同校には診療所も併設され、地域住民らに好評。
近年、鬼木さんは体調を崩し、生まれ故郷の柳川に帰国。療養中だった。(太田宏人)
【写真】サンパウロ市の鬼木学校・診療所
サンパウロ新聞等に投稿
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両親はペルー移民
鍼灸マッサージ師で教育家、事業家でもあった鬼木市次郎さんが3月26日、療養先の福岡県柳川市で死去。94歳だった。死因は老衰。密葬を済ませ、葬儀はブラジルで行なわれる予定。
鬼木さんは両親がペルー移民。父親(伝次郎)の墓はリマ市のエル・アンヘル墓地に、母親(カメ)の墓はリマ市北方のサン・ニコラス墓地にそれぞれある。
鬼木さんの両親は鬼木さんを残してペルーで働いた。いつかは鬼木さんを呼ぶつもりであったが、果たせずしてペルーで亡くなった。
鬼木さんは福岡で育ったが、小学生のときに視力が0・03まで低下。1932(昭和7)年、柳川盲学校を卒業。その後、中国大陸で鍼灸マッサージで成功するも、敗戦により、妻子と裸一貫で帰国。鍼灸マッサージの治療院やレジャー施設を経営し、東京に学校法人鬼木医療学園・国際鍼灸専門学校を建設。
1973(昭和48)年には父母の眠るペルーを初めて訪問。感激の墓参を果たしたほか、鍼灸マッサージの無料治療を行い、好評を博した。
鬼木さんの胸中には次第に「南米の視覚障害者に自活の道を与えたい。それには鍼灸マッサージの学校をつくる」という夢が膨らんでいった。
1990年、ブラジルのサンパウロに鬼木東洋医学専門学校を設立。盲人教育に貢献するとともに、ブラジルでの東洋医学の普及に大きな役割を果たしている。同校には診療所も併設され、地域住民らに好評。
近年、鬼木さんは体調を崩し、生まれ故郷の柳川に帰国。療養中だった。(太田宏人)
【写真】サンパウロ市の鬼木学校・診療所
サンパウロ新聞等に投稿
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(墓75)深澤要と鳴子温泉
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戦前の童話作家で詩人・版画家の深澤要(ふかざわ・かなめ1904~57)は、本業よりもむしろ、こけしの研究にのめり込み、その蒐集に没頭した。
彼は600余点のこけしコレクションを、のちに鳴子町(宮城県)へ寄贈。これをもとに鳴子温泉の近くに「日本こけし館」が開館した。
深澤はこけしを求め、兵庫県西宮の住まいをあとに、まるで巡礼者のように東北への旅を続けた。彼の歌には寂しさと貧苦がにじむ。
「空晴れて山さむざむと雪のこり炭焼小屋に煙りは立ちぬ」(昭和15年、福島県・小原温泉)
「みちのくは遥かなれども夢にまでこころの山路こころのこけし」(遺作『奥羽余話』)
鳴子および遠刈田(宮城県)、土湯(福島県)はこけし発祥の地とされる。だからこそ深澤は、鳴子への寄贈をおこなったのだが、実はこれらの土地は、古くから湯治客で賑わった温泉地である。民俗学の宮本常一はじめ多くの学者によれば、こけしは湯治土産であったらしい。
深澤要のこけしを求める旅は、同時に温泉を訪れる旅路でもあった。
(あるムック本に書いた原稿)
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戦前の童話作家で詩人・版画家の深澤要(ふかざわ・かなめ1904~57)は、本業よりもむしろ、こけしの研究にのめり込み、その蒐集に没頭した。
彼は600余点のこけしコレクションを、のちに鳴子町(宮城県)へ寄贈。これをもとに鳴子温泉の近くに「日本こけし館」が開館した。
深澤はこけしを求め、兵庫県西宮の住まいをあとに、まるで巡礼者のように東北への旅を続けた。彼の歌には寂しさと貧苦がにじむ。
「空晴れて山さむざむと雪のこり炭焼小屋に煙りは立ちぬ」(昭和15年、福島県・小原温泉)
「みちのくは遥かなれども夢にまでこころの山路こころのこけし」(遺作『奥羽余話』)
鳴子および遠刈田(宮城県)、土湯(福島県)はこけし発祥の地とされる。だからこそ深澤は、鳴子への寄贈をおこなったのだが、実はこれらの土地は、古くから湯治客で賑わった温泉地である。民俗学の宮本常一はじめ多くの学者によれば、こけしは湯治土産であったらしい。
深澤要のこけしを求める旅は、同時に温泉を訪れる旅路でもあった。
(あるムック本に書いた原稿)
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