2011年4月9日土曜日

(墓91) 風評被害でゴーストタウン化 いわき市、弔いを必死で守った葬儀社社員






 17日、福島県いわき市を取材した。
 薄磯・豊間地区がとくに甚大な津波被害を受けた。いわき市の市街地から両地区へ向かう道の応急処理は終わっていたが、ところどころに亀裂や陥没があった。大型トラックが道路の路面ごと陥没しているなど、地震の爪あとはいたるところで目にした。
 記者は東京からガソリン持参で、原付バイクで向かった。ガソリンの購入が難しいことは分かっていたので、消費量の少ない方法を選んだ。
 薄磯北街などの集落は壊滅していた。津波の破壊力は、海沿いの人々の生活と人生を根こそぎ潰してしまった。そのほかの集落も、建物や車が流され、道路の両側にも瓦礫が積み上げられていた。
 同市の市民で現在までに分かっている死者は約150人。このほかにもまだ行方不明者が多数いる。しかし、遺体の収容作業は進まない。作業に当たる自衛隊や警察の人員不足が原因だ。ライフラインの復旧の目処が立たず、余震も続いて建物の倒壊の危険もある(市内の各所の地価にはかつての炭鉱の行動が無数に走っており、地盤がもろい)。宿泊施設はなく、放射能による風評によって食料とガソリン、日用品や医薬品などの供給が止まってしまった。これではボランティアは受け入れられない。いわきはまだ、復興期ではなかった。
 市の中心部は完全にもぬけの殻である。沿岸部以外の中心部等では市民が地震後も住んでいた。ところが市内の一部が屋内退避対象地域に指定されたために風評が発生。物流業者がいわき市を嫌って、物資が来なくなった。店は軒並み閉店した。「東京電力が撤退した。自衛隊が冷却作業をやっている。これはもうだめなのではないか」という噂が市内を駆け巡った。
 極端に食料とガソリンが不足し、病院や行政の機能も止まり、32万人の市民のうち、大半が脱出した。
 ワゴンタクシーに布団や衣類などを詰めて市外へ逃げる家族がいた。「お金などいくらかかってもいいから、いわきから出たい。ガソリンがないので車は出せない」という。
 人のいないガソリンスタンドの前には数キロの車列があった。「明日、ローリーが来ることを信じて待つ」という。来ないかもしれない。営業しているスタンドには、もっと長い順番待ちの車列があった。最後の人まで買える保障はなさそうであった。
 沿岸部で発見された遺体を、市内3か所の遺体安置所へ運ぶのは警察の仕事だが、警察車両でさえガソリンが尽きていた。ある警察官は、「もう限界です。遺体を運べません」ともらした。

遺体をどうすることもできない

 市内の大手葬儀社に勤務するA氏は、震災発生後からボランティアで遺体の発掘や運搬に全身全霊をかけてきた。だが風評被害で燃料がなくなった。社長の判断で、勤務は志願制になった。最後まで残った4人のうち、A氏はリーダーだった。
 この葬儀社では一時期、身元が分かった遺体を30数人預かっていた。火葬の順番待ちである。このほか、自宅に安置した故人が何人かいる。
 しかしもう燃料がない。自衛隊も遺体の捜索を一時中止すると聞いた。警察も根を上げている。火葬場の稼動も止まるという。
「放射能で避難命令が出たら、うちで預かっているご遺体をそのままにして逃げることはできません」。実際、いわき市の一部が屋内退避に指定されたときも、突然だった。市にも事前通告はなかった。
 A氏たちは、預かっている遺体をとにかく火葬にし、遺骨を遺族に渡すことだけを目標にしてきた。しかし、火葬の数が多すぎてなかなか順番は回ってこなかった。A氏は毎日毎食、家族が炊き出してくれたおにぎりだけを食べてきた。
 A氏たちは18日、最後の7人の火葬を終えた。
 この遺体のうち、二人は祖母と嫁だった。祖父と孫は、まだ行方不明だ。残りの二人を見つけ、火葬にしてあげたかった。それができないことで、A氏は自分を責めていた。
 水が充分にないので、遺体を洗うこともできなかった。ほとんどの遺体が損傷し、顔には泥や砂、血糊がついていた。それでもできるだけ綺麗にして納棺した。僧侶は逃げたか被災しているので、読経がない。非常事態なので葬儀は後日に厳修することになるとしても、「せめて読経だけは…」と、僧籍のあるA氏はすべての火葬で、経を唱えた。
 A氏は疲弊しきっていた。絶望感と後悔がこちらにも伝わった。
 18日で、この葬儀社もすべての業務を終え、一時徹底する。「食料もなく、放射能が怖いからです。今残っている我々の家族は市内に住んでいます。子供たちを被爆させたくない。…人間ですから、自分もまだ死にたくないです。しかし、こんな中途半端にやめるのなら、はじめからやらなければよかった」と、A氏は悲痛な声を上げた。
 写真は断固拒否。「こんな私には、新聞に載る資格はないのです」。しかし、彼を非難できる人間などいるのだろうか。
 自身も放射能の恐怖と戦いながら、制約された条件下で、必死に人々の弔いを守り続けた人間が、ここにいる。
 後日、彼からメールが届いた。「私はいわきに残ります。この街が復興することを信じています」。
【いわき市より報告:太田宏人】
週刊「仏教タイムス」3月24日、31日合併号掲載

写真:薄磯地区の惨状/葬儀社には故人の名のない花輪が並んでいた/18日の火葬を待つ遺体(いずれもいわき市内で)