ペルー新報・前編集長
フリーライター 太田宏人
●日系ペルー人の信仰史を見る
ペルー共和国リマ首都県カニエテ郡のサン・ヴィセンテ・デ・カニエテといふ町にある「慈恩寺」。この寺には、ペルーに移り住んだ日本人およびその子孫である日系人の位牌が保管されてゐる。
移民の草分け時代(百年近く前)に作られたと思はれる位牌もある。明治・大正の両陛下の「神祇」、及び「今上天皇」と大書された巨大な”位牌”(”標柱”と言った方が適切かもしれない。往事の崇拝対象)も遺されてゐる。
位牌をつぶさに調べれば、日系人の信仰史といふか、信仰の移り変はりの軌跡を辿る史料ともなりうるのではなからうか。
◇ ◇
同寺は長らく曹洞宗の寺籍下にあるが、現在は無住職である。そのため、虫食ひや風化による位牌の損傷が危惧される。たしかに現在、同宗や他宗が時節にあはせて僧を派遣してはゐる。が、慈恩寺における「オボン」や「オヒグァン」といった法要は、個人の信仰心に発する行事ではない。日系人コミュニティによる「先祖の祀りは、仏教でなければならないだらう(しかし、我々はカトリックである)」といふ、コミュニティ内外に向けた喧伝のやうな「意思」が多分に影響しての行事である。
同寺の位牌群の保全を阻む最大の要因は、日系人自身の「位牌」への関心の薄さである。
しかしながら、それは当然のことかもしれない。明治三十二年(一八九九)四月に、ペルーへの初めての集団移民が開始されてからすでに百年以上の年月が過ぎ、日系人のうちで仏教徒と自覚する者は、創価学会の信徒以外皆無といってよいだらう。さらに、日本語を読める日系人も非常に少なく、位牌に記載されてゐる情報がただの記号にしか見えないといふ切実な現実もある。
千余りある位牌を見ると…
同寺の位牌を調べてみると、その数は千百四十六であった。
位牌から判明する故人の姓名は、千九百二十七(○○○○夫妻といふ表記は「一」と数へた)。同じく、名だけのものが二十八、戒名だけのものは百六十五、そのほか読めないもの、県人会などが団体単位で作った慰霊用のもの、朽ちた位牌の合計は九十三であった(一九九八年現在)。
位牌の数よりも故人の数が上回るのは、沖縄独得の位牌「トートーメー」と、ひとつの位牌に数十人の故人名を列挙した「集合位牌」が存在するためである。
ペルーには、沖縄系の移民が多い。日系人の約七割を占めるといふ。トートーメー内部には、その一家の先祖の名を書き込んだ小さな木片が数多く収められてゐるのが普通である。
また、「集合位牌」と筆者が仮に呼称するものは、ペルー中央日本人会(現ペルー日系人協会)が作成したものがほとんどだ。たとへば、年ごとの死亡者(おもに一世)を列挙した位牌、さらに、地方ごとの死亡者のうち姓名の判別できる者をまとめた位牌である。
この寺の沿革は、日系ペルー人の歴史の縮図でもある。
建立の端緒
創建は、明治四十年(一九〇七)と伝へられてゐる。寺が建立されたそもそもの端緒は、風土病や農地での苛酷な労働、奴隷と変はらない扱ひ、住居の衛生状態の劣悪さによって、数多くの移民が次々と死亡したことによる(と、日系社会では言われてきたが、創立者である曹洞宗の上野泰庵師は、実際にはペルーへの日本人送出が始まる前から、ペルーでの布教を計画していたことが、その後の調査で分かっている。日本外務省の資料にも、死者供養だけではなく、日曜説法が行なわれていたことが明記されている。また、カニエテ出身者に酔えば、昔の慈恩寺では坐禅会も行なわれていた。死者供養だけではなかった=2007年追記)。
たとへば、慈恩寺とおなじカニエテ郡のカサ・ブランカ耕地。明治三十二年(一八九九)四月、佐倉丸でペルーに到着した初の移民(第一航海)のうち、二百六十六人が同地のサトウキビ畑での労働に従事することになった。ところが入耕後三カ月の時点で、働ける者はわづかに三十人のみであった。この時すでに、四十人以上が死亡してゐた。それ以外の者は、病の床(といっても、土間に莚を敷いただけ)に臥せってゐたといふ。
第一航海で渡った総数は七百九十人だった。ペルー全国に散らばった彼らのうち、翌年十月までに百二十四人が死亡してゐた。
海外雄飛の夢を抱き、一躍故郷を旅立った彼らの行く末が、このやうな悲惨なものだとは、誰が予想したであらうか。
インディオや黒人、および中国人の奴隷を「消費」してきたペルーの雇用者たちは、新参の日本人移民を同じやうに扱はうとしたのである。現在では立場が逆転してゐるが、当時、ペルーから見れば日本などは、アジアの小国、もしくは貧乏国以外のなにものでもなかった。
あまりに犠牲者が続出するので、農地からの逃亡者はあとを絶たなかった。
この惨状を見かねて、先歿者の哀しき魂を慰撫する供養堂が建立されたとしても、なんら不思議はない。また、明治三十五年(一九〇二)の第二航海以降は家族移民が増えたため、ペルーでも日本人の子どもが産まれだした。そのころになると、雇用環境も幾分かは改善されてゐたが、風土病による罹患率は依然高く、乳幼児死亡率も高かった。慈恩寺の位牌の古いものに乳幼児と思はれるものが相当数あるのは、このためと思はれる。
幾多の変遷を持つ「慈恩寺」
慈恩寺は当初、「南漸寺」と称したといふ。移民有志の手になるものとか、浄土宗の僧侶によるなどと、創建の言ひ伝へは諸説ある。浄土宗の僧侶の名も、幾人かいはれてゐる。日系ペルー人がまとめた歴史書では、南漸寺が慈恩寺に改称したとされてゐるが、実際のところは不明である。所在地も、同郡内の近隣の農村であったなど、慈恩寺には幾多の変遷があった。
曹洞宗では当初より僧を派遣してゐた。移民は国内各地で就労してゐたから、死に際して僧侶が関はれた事例は、じつは少なかった。そのため、自作の位牌も無数ある。これらは、たいがい「(故人名)之靈」と表記されてゐる。なほ、神道由来と明確に判別できるものは、一例のみである。
ペルー生まれの二世でも、日本人的な発想をし、一世と同じコミュニティで暮らすものは、かつては「在留邦人」といふカテゴリィに包含されてゐた。たしかに、曹洞宗の影響は強かったが、だからといって、ペルーの邦人社会で曹洞宗の壇信徒が多かったわけではない。「邦人の信仰」を掌握してゐたのが、同宗の僧侶だったといふわけだ。
日本人祭祀センターとして
ペルーには、邦人が建てた寺は慈恩寺しかなかった。そのため、宗教・宗派を超えて「ペルー在留邦人の信仰のよりどころ」として、慈恩寺が機能してゐたのであらう。
慈恩寺は「超」宗派だった。
さきに、日系人に仏教の信仰を持つものはゐないと指摘した。しかし、一世の時代でさへ、すでに「宗派」へのこだはりは薄れてゐたのではないだらうか。時代性もあるにせよ、「明治天皇神祇」といった“位牌”が作られ、本尊と同じ場所に祀られてゐたことも、慈恩寺の「日本人祭祀センター」としての位置付けを如実に物語る。
第二次世界大戦前後の排日感情の爆発にともなひ、ペルーの日系人はペルーへの同化を余儀なくされた。そのこともあって、「邦人」の第二世以降の世代は、ほとんどがペルーの国教であるカトリックの洗礼を受けてゐる。熱心に信仰する人も確かにゐるが、日系ペルー人のカトリックの神父が嘆息こめて言ふやうに、どこか「あいまい」な信仰であるやうだ。
その曖昧さこそ、日本らしさであるのかもしれない。
曖昧さの一例として、日系人の家庭における「ブツダン」および「イハイ」の存在が挙げられる。カトリックとは相容れない先祖供養が実際におこなはれてゐるのである。ところが、沖縄に強いアイデンティティーを持つ人たちをのぞけば、日系人が自分に対する死後の祭祀を「ブツダン」において維持して欲しいと願ってゐるわけではない。
慈恩寺に持ち込まれる位牌は、年々増加してゐるのである。
『神社新報』2002年9月24日号掲載
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