お茶のお伴をするお菓子(茶の子)といえば和菓子がよく似合います。
お茶の味わいをそこなわないためには、やっぱり和菓子です。そのうえ、お菓子自体の存在感もあるのですから、本当に奥の深い世界です…
和菓子には生菓子と干菓子があり、四季折々の情緒にあふれたきらびやかな味の芸術として知られています。
そもそも、お茶と和菓子はいつの時代にめぐり逢ったのでしょうか。
その原点は実は、お饅頭にありました。
饅頭といえば「塩瀬総本家」。
塩瀬の初代、林浄因(りん・じょういん)さんが中国から渡ってきたのは六五〇年前。
時に日本は南北朝時代。足利高氏が将軍だったころのこと。
浄因は奈良で饅頭を作り始めましたが、これが当時の上流階級に大いに受け入れられ、たちまち大ブームを巻き起こしたようです。
当然、茶人たちの人気も博します。
というのも、当時の茶菓子といえば、干柿や山芋、栗、餅のたぐいだけ。いまの干菓子のご先祖様といったものが多かったのです。
そこに登場したお饅頭。
ころもがふんわりとして、ほおばるとほのかに甘く、しかもおなかもくちるが、なおかつお茶の風味をくずさない…。
そんな饅頭の魅力にセンシビリティーの高い茶人たちが参らないはずがありません。
それ以来、饅頭がお茶の名脇役としてすっかり定着しました。
それに日本人は、小豆が大好物。なにか祝い事があると小豆を食べていたように、もともと縁起物としても印象深かったのです。
ではなぜ、林浄因は饅頭に餡を入れたのでしょうか。饅頭の原形は、中国のマントウにあります。これは、肉や野菜などをころもで包んだ、今でいう肉まんです。ただしこれでは、茶人が多かった禅のお坊さんが食べられません。肉や脂を使ったものは、戒律で厳しく禁じられていたからです。
茶人に受け入れられなければ、商売としては成り立ちません(庶民がお菓子を「買う」なんていうことは難しい時代でしたから)。
そこで、肉の代わりに小豆を使ったのだといわれています。
林浄因の饅頭は、ついに時の帝の聞こしめすまでになりました。そして、この饅頭を大いに喜ばれた後村上天皇から官女を賜り、その結婚式の際に、紅白の饅頭を作って各方面に配ったところ、この紅白饅頭も大流行!
この人物、広告的戦略家としても非凡だったといえそうです。
もちろんこれが紅白饅頭の元祖です。
林浄因が、菓子業にたずさわるすべての人の神様として、現在も厚い尊敬を受けているわけです。
その後、彼の一族だけではなく、数多くの饅頭作りが登場し、時代とともに饅頭作りの技術は高まりました。
そしてその延長線上に和菓子(生菓子)の豪華けんらんな世界が展開されたのです。
ここで簡単に、和菓子のうつりかわりを見てみましょう。
まず、奈良時代。まだ人工的に加工された菓子はなく、木の実や瓜しかありませんでした。
平安時代になると、餅が登場します。そのころ、遣唐使が中国のお菓子を持ち帰りますが、揚げパンのようなもの。まだまだ「和菓子」には遠くおよびません。
そして時代はくだって、室町時代に餡の入った饅頭が登場します。
これにより茶の子としての和菓子も大きな変化を起こします。視覚・嗅覚・聴覚・視覚・味覚という、いわゆる五感を使って楽しむ和菓子の体型がじょじょに完成するのは江戸時代のことです。
ちなみに、江戸などの大都市では町民たちの生活は安定し、ゆとりの出てきた彼らもぼた餅や大福などを食べていたようです。
もちろん、熱~いお茶と一緒に。
春夏秋冬の四季を愛で、自然のうつろいに心を遊ばせた日本人。和菓子に季節感が色濃く表現されているのも、とても自然なことだといえるのではないでしょうか。
[某地方銀行の店頭ディスプレイの展示に使ったコピー。半年ぐらい担当]
1995年頃使用
合掌×焼香×合掌。
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