1999年3月 ペルー新報掲載コラム
少年の宗派は? / カニエテ慈恩寺オヒガン騒動に言いたいこと
ペルー新報日本語編集長・太田宏人
「とくに決まった時に、お線香を上げるわけじゃないけど、いつも手を合わせてるよ」―。
祖父母の位牌を祀った仏壇に手を合わせる日系三世の少年(母は米系ペルー人)。横で、母方の従兄弟たち(この子達は日本人の血を持たない)がおかしそうに笑っている。手を合わせたあとでこの男の子は、胸の前でカトリック式に十字を切る。
男の子は、照れくさくなったのか、「チャオ!」(ばいばい)といって駆けていった。
総体的に言うところの「日系」は、表面上は仏教の信仰を持っているように見え、仏教の用語を使う宗教の行事をいろいろ行なっている。オヒガンやオボン、オテラやブツダン、イハイなどがこれに相当する。だが、これらに無理矢理、ある特定の人たちが「日本の宗派」的な立場から、あれこれと講釈を垂れている。やれ、線香の置き方はどうだとか、戒名とは云々。これが、問題の根本のような気がする。現実を見ていない愚行である。
「日系は古い日本を云々かんぬん」というステロタイプに流されがちな日本の報道の方にも注意を促したい。
(慈恩寺のある)カニエテ町で行われた日系のオボン・オヒガンを取り上げ、「仏教が残っている」と伝えた報道陣へ、である。そういう表面的な視点がペルーに逆輸入された形で、日系人のなかに「ときどき仏教徒になることで、いい印象を(日本へ)与えられる。さらにプラス・アルファがあるかも」と、認識してしまっている日系人がたくさんいることも、日本の報道陣へ認識願いたいのである。
この世を去った親や祖父母を想う、日系ペルー人の心根は多様である。が、それは存在する。
宗教が成立するためには、①信仰の対象、②教義、③信者、④集会する場所#8212;が不可欠という。信者の実情を前提としない(信者の現状から乖離している)議論は、いかさま問題を大きくし、騒乱を呼ぶだけではないだろうか。
信仰を受け継ぐものは、誰か。信仰の対象となっているのは先祖か仏陀か。
いま、カニエテ慈恩寺のことに関連して、蠢めいている方々にお願いがある。とくに、仏教の関係者に念を押したい。日系ペルー人の故人たちを「あれらはほとんどうちの宗派でした」というような欺瞞は、もう金輪際やめて欲しい。慈恩寺に収められている位牌をみれば、すぐに分かる。寺籍は曹洞宗であったが、沖縄系が多いし、形式や戒名などない位牌がどれだけあるかを。もちろん浄土真宗の形式のものも多い。
「信者」といえるのか知らないが、日系ペルー人の現状に即して、筋を通しながら論じて欲しい。ペルー日系人協会も、カニエテ日系協会も浄土真宗も、曹洞宗もである。
これを宗門の間の懸案にすべきではない。
まずは、日系ペルー人の問題としたい。
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