北海道開拓の<人柱>タコ
“虐待”という言葉すら生ぬるい恐怖の世界
太田宏人
屯田兵の前に北海道を開拓した人たちがいた。そして、多くが、死んだ。
明治政府は当初、本州の監獄にあふれていた政治犯対策をかねて、彼らによる北海道開拓を立案、明治一四年から終身労働につかせた。が、死者が多過ぎたため、明治二七年に終了。そこで「タコ」という拘禁労働者がおもに本州から騙されて連れて行かれた。「タコ」という名は、海のタコが蛸壺に入ると逃げ出せず、飢えて自分の足を食うことと人間のタコの境遇が似ているからとか、脱走したタコの逃げ足が糸の切れた凧のように速いからとか、諸説ある。
囚人は、手錠と鎖で縛ることができたが、タコにはそれがない。容赦ない暴力がそれに代わった。飯場は「タコ部屋」または「監獄部屋」といわれた。窓はなく、夜は戸外から鍵がかけられた。
鉄則は、「逃げるなら最初の一週間以内」。それ以上では体力が消えた。起床は午前二時か三時で日没後まで働く。粗食。ビタミン不足で脚気が蔓延した。衝心性脚気は発症後三日で死亡する。当時は原因不明で治療法もない恐怖の病気だった。
脚気のタコも現場へ連行し、素手で土を掘らされた。脚気は「怠け者の病気」なる迷信に基づく「見せしめ」だ。飯場には病人を残せない。すると、監視要員が一人必要になってしまう。タコの逃亡が多く、現場の監視人は不足していた。
動けない者は橋の上から落としたほか、現場で生き埋めにした。道端にも捨てた。ヒグマに食われるか、餓えるか、病死か、いずれも数日で死んだ。生き埋めが「人柱伝説」になった。常紋トンネルの<人柱>人骨は、昭和四五年九月一〇日に発見されている(常紋トンネルはタコが作った。よく混同されるが、囚人労働ではない)。
重労働に耐えかね脱走してもすぐにつかまった。タコは土地勘がなかった。タコはふたりに一人逃げたが、日中の脱走はほぼ一〇〇%つかまった。ピストルを持つ監視人と猟犬に追われた。人間狩りだ。つかまると、私刑。殴る蹴るは前戯で、足腰が立たなくなってからが本番だった。瀕死のタコに戸板を載せ、大勢のタコが「その上で飛び跳ねろ!」と命令される(内臓が破裂し、便が飛び出すまで)。裸にして吊るし、火あぶり。または酒をかける。すると、蚊や虻がいっせいに群がり、肌も見えない。一晩放置すると風船のように体が腫れて、絶命。反抗して即座に射殺されたり、スコップで頭を割られ、火をつけられることもあった。
常紋トンネル工事(明治四五年~大正三年)の犠牲者は百数十名という。正確な記録はない。殺人(病死、過労死、虐待死、自殺を含む)が記録に残らない無法地帯だった。
タコになるのは東北の貧農だった。時代が下ると、都市の最貧困層や金に困って駅前をうろつく学生らが勧誘屋に騙された。宣伝文句は「一日一円~二円」。いまの感覚なら日当数万円だ。ところが、就労契約が交わされると勧誘屋は鬼になる。おごりのはずだった勧誘のさいの飲食代、北海道までの法外な旅費が請求され、巨額の借金となる。日給一円は手取りではない。食事代が日に五〇銭引かれるほか、定価の数倍の日用品を親方(飯場の責任者。いわゆる下請け業者)から買わなければならなかった。飯場は人跡未踏の奥地だった。親方から買うしかなかった。タコに外出・通信・会話の自由はなかった。金など貯まらない。運良く生き延びても、タコに戻るだけ。
警察の取り締まりはなかった。買収されていた。医者もいなかった。
戦後、占領軍によってタコ労働が禁止されても、完全になくなることはなかった。
「北海道の道路網はもちろん、鉄道の敷設、築港、治水、灌漑工事、または鉱山開発にいたるまで、官営、民営を問わずあらゆる土木工事は、監獄部屋の人夫たちの血と汗、酷使と虐待と死傷のうえになしとげられたのである。北海道の鉄道には枕木の数よりもたくさんの人間が埋められているといわれる」(『日本残酷物語5~近代の暗黒~』より)。
〆
ミリオン出版『漫画実話GON!ナックルズ』Vol.3掲載
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