南米最古の神社/東京植民地神宮の夢
ペルー新報 元日本語編集長・太田宏人(神道学専攻)
ブラジルに東京植民地神宮という神社があった。
この神社の名前はブラジルの移民史において頻繁に語られることはない。忘れ去られた神社であるが、南米大陸最古の神社である。
海外神社論の大家として知られる小笠原省三が書いた『海外の神社』(昭和8年)によれば、かつてブラジルにはサンパウロ州内に「ボーグレ神社」と「東京植民地神宮」が鎮座していたという。
ボーグレは、先住民「ブーグレ」族のことであろう。所在地は第一上塚植民地(プロミッソン)。一方の東京植民地神宮は、その名の通り東京植民地(モツーカ)にあった。
同書ではボーグレ神社をブラジル最古の社とするが、実際は違う。上塚植民地は大正7(1918)年、東京植民地は同4(1915)年の建設。同書によれば、二つの神社は、それぞれの植民地が開かれたのと同時期に創設されたというので、東京植民地神宮のほうが早い。南米の他の国に神社は存在しなかったので、同神宮が南米最古であろう。
小笠原は昭和3(1928)年に渡伯し、実際に両社へ参拝している。しかも現役の神主であり神道学者だ。そのため、建物や鳥居の形状等の記述は精確で、信用に値する。
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本年2月、東京植民地の跡地を訪れた。
サンパウロ市からアララクアラ市までは長距離バスで約4時間。同市に住む馬場實子(じつこ)さんを訪ねる。東京植民地の指導者だつた馬場直(すなお)の長男で故・馬場謙介氏の夫人だ。謙介さんは東京植民地生まれ。戦前に日本で教育を受けた。日本の敗戦後、日本にいたブラジル出身者を帰伯させるために奔走したことで知られる。また、日本軍兵士として戦場へ赴き、戦死したブラジル二世たちの足跡を追ったほか、自身も朝鮮戦争では従軍記者として活躍した。ブラジル帰国後はサンパウロ新聞アララクアラ通信員として記者魂を感じさせる名文を多く発表したことは、読者のよく知るところだろう。
謙介さん亡き現在、實子さんは日本語教師をしているとのこと。
東京植民地神宮について質問すると、
「神社はよく知りません。東京植民地の出身者に訊くと、それらしいものが小学校の校庭の片隅にあったそうです」
残念ながら、社殿などの写真は持っていないという。しかし、實子さんから東京植民地や指導者であった馬場直について、他では聞くことのできない貴重な話を伺うことができた。
同地は、「日本人による日本人のための」初の植民地だった。平野植民地よりも早かった。
馬場直は長崎県南高来郡出身で大正3(1914)年に渡航。ブラジル人地主の下でなかば農奴のように扱われる日本人の境遇を憂い、自ら植民地経営に乗り出すことを決意。同志の15家族とともにパウリスタ線モツーカ停車場の近くに土地を求め、「東京植民地」と命名、コーヒー等を生産した。
馬場の理想は「半永久的な農業王国」の建設だった。植民地の中心に、伊勢の御神霊を祀る大神宮を設置したのも、馬場が永続的な「日本人村」の理念を持っていたためであろう。先に紹介した小笠原の資料によれば、馬場はキリスト教徒だった。だが、戦前のキリスト者は現在と違い、国を愛し、皇室を敬い、寺社を大切にした。馬場が神社を創建しても不思議はない(實子さんによれば、馬場は「一番嫌いなものは神父と僧侶」と公言していたそうだが)。
一方、その後、ブラジル各地に出現した日本人植民地で社寺が建設されることはなかった。代わりに日本人小学校(兼集会場)の御真影が御神体の機能を果たした。この点、東京植民地神宮は異色だ。
東京植民地神宮とはどんな神社であったのか。前掲書を引用しよう。
「始め周囲に木柵を巡らした純日本風の小社殿を建築したが、(中略)今では周囲一坪ばかりの煉瓦建の堅固な建物の中に小さな住吉造りの社殿を安置し、鳥居を建て、玉垣を巡らし、玉垣の内には美しい砂利を敷いている。(中略)縄を張った鳥居(中略)、社殿には紫のメリンスの幕が巡らされてあった。年に四回神社の祭典を執行する。神職は小学校長を兼務せる生駒氏、生国の伊勢で二ケ年間神職と小学教員を奉仕せる人」
植民地建設の当初から、移民はマラリアで斃れた。初年度だけで8名の家長が死んだ。最初の入植戸数の半数である。馬場の娘も死んだ。
前掲書は、神社創建によってマラリアの猛威が低減したと強調する。しかし実際は、犠牲は続いた。同植民地への入植者数は延べ約1500人だったが、死亡者は約300にものぼる。
それでも同植民地は発展を続けた。歴代の総領事が視察に訪れ、戦前は「模範植民地」と呼ばれた。
昭和5(1930)年前後が同植民地の最盛期だった。それを境に、植民地から人が減っていった。
焼畑に依存する当時の開拓農法は、30年ほどで地力を奪い尽くした。移民たちは、そうした耕地に見切りをつけ、次なる開拓地へと進出した。こういった植民地に「村の鎮守」が建設されなかったのは、移民の漂泊性が影響しているのだろう。
東京植民地神宮も終焉の時を迎えようとしていた。同地出身者によれば、6月にはミヤマツリと称する奉納相撲が大々的に行なわれていたが、人が減り、祭典も消滅した。
終戦時には30家族しか残っていなかった。
昭和21(1946)年、馬場一家は東京植民地からの退去を余儀なくされた。皮肉なことに、日本人による農業王国の建設という理念を燃やして耕地に残留したほとんどの者たちは「勝ち組」だった。一方、理性的な馬場は認識派であった。また、謙介さんの弟の道雄さんの岳父は、勝ち組の凶弾に倒れた野村忠三郎だった。
馬場家は連日、文字通りの石打ちの被害を蒙り、屋根には穴があいてしまった。
馬場直はのちにサンパウロに移り、昭和48(1973)年に逝去した。遺産はなかった。
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馬場實子さん、同地出身の外間(オカマ)エレノアさんの案内で、アララクアラ市からタクシーでモツーカへ向かう。
多くの人に「現在は植民地のよすがを感じさせる物は何もない。行くだけ無駄」と忠告されたが、その土地を自分の足で歩き、その空気を肺に吸い込んでみなければ判らないことの方が多い。
驟雨のなか、現地に到着。たしかにかつての植民地は、一面のサトウキビ畑に変わり果てていた。神宮はいうに及ばず、小学校も移民の家も、何も残っていない。
だが、移民たちが死力を尽くして格闘したテーラ・ロッシャは往時のままだ。子供等が泳いだという小川も、昔日の流れを留めていた。
民家が一軒だけ、見えた。尋ねてみたが、留守のようであった。
建物を見ていると突然、「あのバルコニーは、昔のままです」とエレノアさんがいう。實子さんによれば、そこはエレノアさんの生家の場所とのこと。
庭先で柿の樹を発見した。柿は、日本人がこの大陸に広めた。
ここに、日本人の生活があった。
この場所で人が生き、そして死んだ。
その中心に、南米最古の神社があったのだ。(おわり)
※ 本取材にあたり、ブラジル日本移民史料館の小笠原公衛氏には大変お世話になりました。心より感謝します。
「サンパウロ新聞」2007年3月28日、29日掲載
…二礼二拍手一礼(忍び手)
【写真】「ミヤマツリ」と称された奉納相撲(撮影年不明)。行司は馬場直か(サンパウロ市・清水ホーザさん提供)
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