いま、ペルーで日本語の名前(日本名)が復権している。
ニッケイの子どもたちの多くが、日本名を体外的にも通り名にしているのだ。ニッケイの集まる場所以外でも、である。
たとえば友人の三世、リカルド・コガ夫妻(ともに三十代後半)は、二人の娘(長女三歳、次女一歳)にそれぞれ日本名と、母国語であるスペイン語の名前を付けた。が、家庭の内外で日本名を通し、スペイン語の名前はまったく使っていない(ペルーでは、名前を二つまで届け出ることができる)。親が日本名でしか呼ばないものだから、娘たちもその名前で「自己認識」するわけだ。
これまで、ペルーでも一般的には他国の日系人同様、日本名がすたれていた。それは、家庭内か友人のあいだだけの「出生証にない名前」だった。
出生証に記載するとしても、対外的には使わず、もうひとつのスペイン語の名前を通称にすることが常識的だったようだ。
戦前の移民は、ペルーに定着する気はなく、子どもたちにも日本式の教育を受けさせていた。故郷に錦を飾るための「移民」。そのころは、スペイン語の名前は軽視されていた。ところが、日本の敗戦で状況が変わる。帰国の途を閉ざされ、日系人はペルー人として生きざるを得なくなる。とくに、思春期を迎えていた二世・三世の多くは、積極的にペルーの良き市民たろうと努力した。
スペイン語の名前を名乗ることは、彼らにとって当然の選択だったのだろう。以前、現地の邦字紙に勤務していたころ、当時の社長は執拗にスペイン語の名を僕につけたがった。
「ペルーで発行する新聞の編集責任者が日本名というのは、芳しくない」からだそうだ。たしかに、外国人は報道機関の社主・責任者になれない法律(ザル法)があるにはあるが、そのことへの配慮ではない。事実、ペルー国籍でも外国の名前(日本語に限らず)を使っている人もいるのだから。ちなみに、瞥見ではイタリア、東欧、アラビア、中国といった英語圏以外からの移民の子孫たちも、おおむね移民先国家(ペルー)の国語(スペイン語)に由来する名前を通り名にしているようだ。家庭内ではどうだろうか? 興味あるところだ。
さて、根強い排日の空気のなか、ペルー国民として自己を作っていった日系人。彼らにしてみれば、対外的に日本名を通り名にするなど、アイデンティティーにそぐわないのだ。
ペルーの三大紙のひとつ「ラ・レプブリカ」の創刊にかかわり、のちに編集長をつとめたアレハンドロ・サクダさん(二世、六十二)は、
「日本人の血を引いていることを忘れはしないし、一世の父親のことも深く、大切に思う」が、
「私たちはペルー人。日系ということで(日本からの)便宜を求める気持ちになれない。だいたい、NIKKEIという言葉も使うべきではない」と語る。彼自身、少年時代に学級で一番の成績を取りながら、成績優秀者の表彰からはずされた経験をもつ。
「それで、はっきり自覚したんだよ。これからはずっとこういうこと(差別)に立ち向かってやろうとね」
彼も日本名を持っている。正確に漢字で書ける。でも、使いはしない。
ではなぜ、若い世代に変化が起きたのか? 背景には、いろいろな理由がある。
まず第一に、ペルー側の事情。
ニッケイたちの社会的地位が向上し、先祖の出自国である日本も経済的大国になったことで、ペルー国内での人種差別がかなり下火になったこと。世界的に活躍する日本人も増え、「聞きなれないヘンテコな音」でしかなかった日本名が広く認知されたこと。ペルーでも、先のファースト・レディーは「ケイコ」と国民から親しまれていた。ペルー社会が、日本名に拒否反応を示さなくなっている事実を否定できない。
次に、ニッケイ側の事情。
日系ということの自覚も、確かに多少はあるかもしれない。
それよりももっと、西洋系とは違う「意味をともなう名前」への憧憬や親しみ。さらに、子弟が日本名をつことで、日本への就労査証(ヴィザ)が出やすいなどという思い込み。これらこそが大きな要因といえる。
ヴィザの件はともかく、出稼ぎというのは、発展途上国のニッケイたちにとてつもなく大きなインパクトを与えているのは間違いない。日本名の復権にしても、「民族の自覚」ということよりも、日本の学校で日本名を持たない子どもが受ける不便を、彼らは心配しているのである。
ここに、ニホンでニホンジンたろうとするデカセギの意識を見るような気がする。受け入れ先(日本と日本人)は、そうは思わないのだが。ここに大きな悲劇の種があるのだろう。
ところで、日本名の復権を裏付ける出来事として、2000年暮、リマで出版した『Nombres en Japon[es(日本語における名前)』という本が、好評だ。
これは、友人との共著。吹聴するわけではないが、売れている。【2006年現在も、まだ売れ続けている】
日本人の使う名前(日本名)を男女合わせて七百以上ピックアップし、ペルー的なスペイン語に翻訳しただけの手帖で、字画だとか占いめいた事柄は説明していない。
もともとこの本のアイデアは、くだんのリカルド・コガによる。彼と二人で書いた。
「いま、子どもに日本語の名前をつけたがるニッケイの若い親たちは多い。けれども、日本語の名前を考えてくれる一世はほとんど亡くなった。二~三世でも、自分の日本語の名前の意味を知らない人がたくさんいる。日本名前を翻訳した本を出せば、売れるに違いない――」。
非日系ペルー人(こういう表現をしていいものか迷うが)も、本を買っているそうだ。
現実に、ニッケイとは何の関係も持たない人たちが、子どもたちに日本名をつけ、それを通り名にしているケースもある。(不法)出稼ぎを想定しての場合だけではない。日本名へのシンパシーもあるわけで、まさに日本名の「復権」、百花繚乱といった風情だ。
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ちなみにコガ夫妻は、僕が娘に「日本語の名前を付けなかったこと」をいまでも訝しがっている。妻がペルーの日系三世であるため、娘は二重国籍。父親としては、日本でもペルーでも使える名前をさがして、エマ(恵真)と付けただけで、日本名をつけなかったという意識はない。
むろん、エマくらいなら「許容範囲」と思ってのこと。僕には、絵美理ちゃんとか、富夢くんだとか、麻里亜ちゃんといった外国の名前をそのまま漢字にする勇気がなかったのだ。
現在この国でかなり普通に見られる知比呂(ちひろ)、愛海(なるみ)、彩花(さやか)、沙奈(さな)、萌香(もか)、裕凱(ゆうが)、琉花(るか)、英那(えな)、穂香(ほのか)、泰弘(たいぐ)ちゃんetcといった名前(すべて実在)は、コガ夫妻にとっては、「日本名じゃない。おかしい」そうだ。
なお、ペルーでは親族のだれそれから名前をもらうことが多い。それと同じ方法で、日本名を命名する親も、少なからずいる(意味はわからないので、音だけ)。
知り合いのなかにも、「ヨネコ」という少女がいる。きいてみると、「おばあちゃんの名前」ということだった。そこで、名前の本には古い名前も採用している。
『季刊海外日系人』2001年8月号(第49号)掲載
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