先人を祀る想ひは、遠い異国にあっても変はらない。むしろ、本国での安穏とした日々を送る者にはない至誠が発露された。生者が死者を悼み、現在の生を感謝する純粋な心情である。
南米ペルー。この国にも、日本人移民の先没者を祀る慰霊塔や日本人墓地が散在する。
ペルー移民は、明治三二年(一八九九)に南米で初めて開始された。日本人は、大規模なプランテーション(耕地)での単純労働者として雇ひ入れられた。だが、過酷な労働と伝染病により、多くの移民が絶命した。医療機関の不備、言葉の問題、栄養不良などで、幼児の早世も珍しくなかった。だからどこの耕地でも、片隅には日本人の埋葬地が作られた。
もはや、これらの埋葬地は散逸し、あるものは農地や宅地に、あるものは砂に埋もれた。日本人が多かった地方では、埋葬地が整理され、「日本人墓地」や「慰霊塔」が建設された。その嚆矢が、太平洋岸のサン・ハシント耕地に昭和元年(一九二六)に完成した日本人慰霊塔だ(現在は台座だけ残存)。
移民の聖地
ペルーには、神社はない。一世移民や二世以降の日系人が共有する唯一の宗教施設は、リマ州南部に存在する「泰平山慈恩寺」である。この寺院は、曹洞宗の上野泰庵師が明治四〇年(一九〇七)、もしくは翌年に開山した南米大陸で最古の日本仏教の寺院だ。
上野師以来、曹洞宗派遣の布教師が歴代住職を務めたが、在留邦人には宗旨や教義へのこだはりはまったくなく、まさに「超宗派」「超宗教」として、多くの人々に支へられてきた。宗教・宗派を超え、誰でも参詣できる慰霊施設であるが、「先没者を祀る」といふ強烈な宗教心に裏打ちされてゐる。
慈恩寺から数㌔離れたカサ・ブランカ日本人墓地(昭和七年完成)には、七メートルを超す「無縁塔」(納骨慰霊塔)がそびえる。慈恩寺とカサ・ブランカの慰霊塔は、戦前から「移民の聖地」と呼ばれ、現在でも日系人の墓参が絶えない。ほかの慰霊施設とは別格の扱ひを受けてきた。
“移民の聖地”には、全国の埋葬地から集められた人骨や土が合祀されてゐるが、参拝する日系人はそんな事実は知らないやうだ。だが彼等は、自らの血縁を超え、「先没者たち」といふべき大きな存在すべてに、生者として語りかけるのである。完全にカトリック化した日系人が焼香し、祈る姿に、一種独得の「先祖との交歓」が見える。
慰霊施設の未来
慈恩寺とカサ・ブランカなどの若干の例をのぞき、多くの慰霊施設は存続の危機にさらされてゐる。
日系人の日本への出稼ぎ、地方の日系社会の過疎化と崩壊、若い世代と旧世代の断絶、日本語が分からないスペイン語世代への情報提供の極端な欠如などのマイナス要因が重なり、ペルー全国の四つの日本人墓地、一四の慰霊塔、寺院および位牌堂への関心は、年々低下してゐるのが現状である。完全に見捨てられたものもある。
リマ州北部のサン・ニコラス日本人墓地(昭和一〇年完成)の墓碑銘は、かう結ぶ。
「当国に生をうけ同じ血の流れる後続の諸氏よ、願くはこの霊地を永久に守られん事を」
このメッセージは、日本に生きる日本人にも、重要な何かを訴へる。
(おほた・ひろひと/フリーライター。國學院大学神道学科卒。ペルーの日本語新聞『ペルー新報』元編集長)
【写真1】カサ・ブランカ無縁塔の序幕式(昭和7年8月15日)。その後倒壊したが、再建されてゐる
【写真2】ペルー鹿児島県人会によるパラモンガ日本人墓地(リマ州北部)への墓参(平成12年)。
「神社新報」2003年9月掲載原稿に一部加筆
神社新報は「歴史的仮名遣ひ」で表記してゐる
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