ラフカディオ・ハーンの作品を読んでいると、明治日本がまるで桃源郷のように思えてくる。
が、そこにも辛酸な生活を送る貧しい人たちがいた。
ハーンが日本に到着する七年前、つまり明治一六(一八八三)年には鹿鳴館が開館、西洋舞踏会が華やかに繰り広げられていたが、一般の庶民は困窮していた。明治一八年に、第一回の官約移民九二七名がハワイ王国へ向けて横浜を出発しているが、当時の日本が抱えていた貧困とは切り離せない出来事だろう。翌明治一九年は、維新以降で最悪の不況となり、東京にはすでに麻布や芝の一画など、深刻な貧困にあえぐ貧民街(窟)がいくつも生み出されていた。
この年、『朝野新聞』に「府下貧民の真況」という一文が連載された。この記事および明治期の東京の貧民については岩波文庫の『明治下層生活誌』(中川清編)に詳しい。
襤褸をまとい、木賃宿や共同長屋で細々と、しかし、いがみ合いながら生きる人々。わずかばかりの現金収入の途といえば、屑集めか遊歴の門つけ、虚無僧、乞食。自分の車を持てない俥夫、日雇いの土工、辻占、軽業師。女には売春、男には犯罪の道もあった。雨が続けば仕事はなく、困窮した者が質屋を頼って右往左往する。布団さえ借り物で、日銭がなくなれば、寝具なしの夜を耐えねばならない。社会的な保証もなく、生存すら危うい収入。食事といえば不足するのが常で、近在で法事があれば呼ばれもせずに乞食に出かけ、掛取りを恐れるあまり暮正月を地獄と表現する人々。
現在の日本では、住民の日々の生存が危ぶまれるほどの貧民街がほぼ存在しないために、ちょっとイメージしにくいかもしれないが、世界的には「普通」に存在している。
南米のペルーに住み、現地の日系人の新聞社で働いていたころ、首都リマ市郊外のチジョン川という小川のほとりに拡がったバラック群を取材したことがあった。
その一帯では、豚の飼育を行っていた。
雨が降らないので屋根はない。壁は板切れと葭津のような莚からなり、気密性はゼロだが、形容しがたい悪臭が充満し、鼻が麻痺する。蝿がすごい。
住民は全員、この土地を不法占拠している侵入者で、これもリマではよくある話。市当局が退去を勧告していたが、ほかに行く宛ても資金もない彼らは、強制退去の日まで居座るのである。
各小屋では、市内のゴミ捨て場から集めた残飯を土間のドラム缶で煮込み、豚の餌とする。人も同じバラックに住んでいる。板で仕切られた隣り合わせの一画が豚のスペース。床は土間で、糞尿によって泥土となっている。人の良さそうな小母さんが、餌を入れたバケツを持っていくと、豚が嬉々として寄ってくる。豚の体も小母さんの襤褸も糞にまみれている。
小母さんの小屋(家)の外は川べりで、近在の小屋から掻きだされた豚の糞を川に向かって投棄する場所になっている。裸足の子どもたちが遊んでいる。悪戯そうな笑みを浮かべ、足元の土をめくってくれると、そこにはたくさんの蛆虫が這っていた。つまり、地面ではなく、糞の体積なのである。子どもたちは、ゴミを集め、そのなかから金属を分類する。屑鉄屋に売るのだ。
ゴミを燃やし、明らかに有害なガスを吐き続ける焚き火にくべられた缶のなかでは、鉛が溶けていた。水銀にも見える。子どもたちは、これも売るという。空き瓶なども大切な現金収入源となるので、拾ってくる。
子どもたちの笑いは歪み、視線には無力感と敵意がこもっていたが、彼らのあいだで時折見せる表情は、まだ幼かった。
スラムといってしまえばそれまでだが、ここも、地方から首都に流入してきた人々が作った典型的な新興集落で、水道や電気はない。都市の下層労働力として組み込まれる彼らは、例外に漏れず貧困に直面していた。
繰り返すが、明治日本にも下層社会はあった。
だが、ハーンの日本時代の作品を見てみると、そうした生々しい記録はない。
そこに浮き彫りにされたのは、粉飾過剰とも酷評される“古き佳き時代の日本人”の姿である。
しかし、米国シンシナティ時代は自身も社会の底辺に生き、新聞記者となってからは、大都市における低賃金労働者として生活に呻吟する有色人種やその混血の子孫たち、新参の移民といったコミュニティーを好んで探訪し、記事にしたハーンである。日本に生きた日々のなかで、貧民街に気付かなかったとは考えにくい。それとも、いにしえのギリシャ世界(つまり、ユートピア)のごとく日本を西洋に紹介する都合上、汚いものに蓋をしてしまったのだろうか。
その答えは、ハーンの「人形の墓」(『仏陀の国の落穂』所収)に垣間見ることができるようだ。
この掌編の骨格は、「同じ年に同じ家から二人の死人が出ると、人形の墓を作らなければならない。さもなければ、三人目が死ぬ」という俗信で、経済的な理由から人形の墓を作れずに、結果として一家が離散した経験をもつ「いね」という少女の身の上話として物語は展開する。
「万右衛門爺」によってハーンの自宅に招き入れられた少女から、ハーンは直接、聞き取りを行った。記述は、いねの語り口をそのまま原稿用紙に書き込んでいったかのような、淡々としたものであるが、読者はそこに、いねを見つめるハーンの限りなく優しい眼差しを感じるのである。
この少女は、上記のような貧民街のひとつに住み、不幸な身の上話をしながら施しを貰い歩いていたのかもしれない。厳格な意味での乞食(こつじき)は、貧民の立派な職業のひとつであった。
ハーンの文章は、懐かしい。
懐かしいだけではなく、幾度読んでも、新鮮な潤いが失われない。
では、「人形の墓」を読んで感じる懐かしさとは、一体なんであろうか。
現在では忘れられた、人形の墓という風習だろうか。それとも、不幸ないねの境涯であろうか。愚考を述べさせていただくとすれば、それはいねの人間性だと思う。ハーン風に書くならば「いねという一少女に集約された、民族の記憶の表象」かもしれない。
物語の最後の部分、いねがハーンの家を退出する場面が印象的だ。
老人に質問をすべく、彼女の坐っていた場所に移動したハーンを、草履を履こうとしていたいねが鋭く制する。「おまじないをせずに、他人のぬくもりが残る場所に坐ると、前にその場にいた人の不幸をすべて背負い込んでしまうから」というのである。
いねは、不幸せだ。しかし、ハーン(第三者)に自分の不幸を伝染させるようなことは許さない。救いようのない境遇にいるかもしれないが、この少女は、他者を思いやる優しい心までは、捨て去ってはいないのだ。ハーンが日本人の心性に共鳴するのは、こういう瞬間なのかもしれない。
そして「いね」の心性は、同じく不幸せな人生を歩いてきた人間「ラフカディオ・ハーン」にも共通する。ハーンは、来日以前に自分の人生を呪ったこともあったかもしれない。だが、他者、とくに弱者への優しい眼差しを捨てることは決してなかった。
いねに「不幸をかぶる」と諭されたハーンであったが、だからこそ笑って、いねの坐っていた場所に立ちつづけるのだった。
そして、この短い物語は、「(私には万右衛門がその時使った日本語の丁寧な言い廻しが再現できない)」というハーンの前置きのあと、万右衛門爺が「心配しないでもいいのだよ、旦那さんは他人の苦しみを御自分でもわかちあって、よくよく知りたいのだから」と、いねに話して聞かせるところで、終わる。
ハーンが小泉八雲として明治三七(一九〇四)年に日本の土となってから、まもなく一〇〇年になろうとしている。
この間、日本は変った。
生活や服装はめまぐるしく変化し、物質的な繁栄は史上類を見ないものになっている。その一方では、兎住まう蒼き山、小鮒跳ねる清らかなる小川、蜻蛉群れる野の原は、記憶の鬼籍に入りつつある。
ところがハーンの作品は、いつの世になってもわたしたちの心を捉えて離さない。
ハーンは、庶民の生活や言動に取材し、普遍的で奥行きのある「日本人らしさ」を高純度で抽出し、高い気品を備えた文学作品へと昇華させた。明治という時代、日本という場所も幸いした。
「人形の墓」においては、貧民街という現実の事象は一気に突き抜け、いねという少女の「私が坐っていた場所には、お立ちにならないで下さい」という制止の言葉が放たれた一瞬に強烈な光を照射し、“古き佳き時代の日本人の心”を読者の内奥に鮮明に焼き付けるのである。そしてそのイメージは、明治日本という時代を超え、現代人の心をも包み込んでやまない。
ハーンの仕事は地味かもしれない。だが、作品を読み続けるわたしたちは、その真価を知っている。そして、明治を象徴する作家・夏目漱石と比較することで、それはより明確になる。
夏目はハーンの日本到着から一〇年後の明治三三(一九〇〇)年から二年間、文部省の命令でイギリス留学に出かけた。が、イギリスではほとんど下宿に閉じこもって原稿を書き続けていたという。明治に芽生えた近代市民としての自我を小説に取り込んだ夏目に対し、ハーンは、そういった新しい自我に埋没してゆく旧日本の精髄を記録することで、時代を超越する普遍的な“日本人の心の原郷”を書き遺したといえるのかもしれない。
〆
『FRONT』2001年12月号掲載
GASSHO
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