秩父や奥武蔵に源を発し、埼玉を貫き東京湾に注ぐ荒川。かつては名前の通りの荒れる川であった。そして、流域に恵みをもたらす豊饒の川でもあった。その猛き流れに、人々は霊威を認めた。水の神は古来、龍神である。荒川水系に龍に関する伝説などが多く遺されていても、不思議はない。埼玉県内に、龍にまつわる人々の記憶の痕跡を追った。
龍の棲む淵
名栗村川又の龍泉寺は、雨乞いのご利益ある「神様」として名を馳せた。農民にとって旱魃は、まさに生命にかかわる大事態。灌漑が充分ではない時代、雨乞いは必死の行為だった。
龍泉寺の後方、有間谷には龍が棲まう「大淵」がある。人々は、その龍に雨を求めた。近在はじめ、現在の神奈川や東京の村でも代表を選び、村の総意で代表に参拝させた(代参)。代参の最後の記録は、海外旅行が自由化され、『平凡パンチ』が創刊された昭和三九年だ。
住職・有馬壽雄さんの案内で、大淵へ。谷に沿って林道を遡行すること数キロ。車道から別れ、急斜面を沢に向かって降りる。
沢へ降りると、眼前に直径数メートルほどの淵――大淵が広がった。日没時でもあり、一種異様な仄暗さと冷気が漂う。
濃緑に光る淵の中央は、冥界を想起させる。淵の上流部の左右には、銀の鏡を思わせる二枚の巨石。鬱蒼とした木々。岩と岩の結合部からほとばしり、淵に落ち込み、うねる水。沢の響き。人間を拒絶するかのような冷厳さ。ここが龍神の棲家というのは、頷ける。
「この風景は、昔から変わらないんですよ」と、有馬さん。一八三〇年に完成した『新編武蔵風土記稿』の大淵の絵図と現在のそれに、差異がないそうだ。絵図には、淵に向かって左上部に小屋が掛けられ、僧が祈祷を行っている。その場所には、「龍神宮」と彫られた古い石碑があった。
淵の手前の川原ではかつて、各地からの代参者が額づき、霊験ある大淵の龍に祈りを捧げた。
龍泉寺の位牌堂の一隅には、龍神を祀る祠が安置されている。本堂を建て替えたときに祀る場所がなくなり、昭和四五年にこちらへ遷したもので、祠の神札によると、大淵の神は大淵龍王という。しかし、実際に大淵に相対して感じたことは、具体的なイメージの龍――鱗があり、脚があり、空を飛ぶ――ではなかった。西行が、伊勢の皇大神宮(内宮)参拝のおり、宇治橋橋で詠じたという「何ごとの おはしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」という、あの畏怖ともいうべき感情である。
有馬住職も「子どものころ、大淵といえば、とても怖いところでした」という。
この淵の向こうに、この世ならぬ世界が開け、あちら側に息づく存在を体感する。文字を知らない素朴な農民ならずとも、水底に感じるものは「水の神」ではないだろうか。
柳田國男は、雨乞いの神としての龍王の名を外来語とし、「その名を採用する以前にはこの神様を何と呼んでいたろうか」「実質からいえば、前には『水の神』といったと思う」(「竜王と水の神」『國學院雑誌』昭和一六年)という。
いつの時代からか民間では水神が龍神になり、水にまつわる伝説や昔話では龍が飛び交うようになった。龍であれば、よりイメージが膨らみやすい、と柳田はいう。
大淵にもいくつかの伝説がある。
昔、土地の某がこの淵でヤマメ釣りをしていた。釣った魚の腸を小刀で掻いているところへ、小さな蛇が泳いできた。某が誤ってその蛇の尾を切ったところ、谷は三日三晩、赤く染まった。じつはこの小蛇は龍神の化身だった。だから大淵の龍には尾がない、という。
こうした伝説が広まり、人々に抽象的な世界の存在である龍を、具体的にイメージさせていったのだろう。
鶴ヶ島市脚折(すねおり)の雷電(かんだち)池では、長さ三六メートル、重さ三トンもある藁の「龍蛇」を担いで、池の中を練り歩く雨乞い神事がある。もとは池に面する雷電神社での降雨祈願であり、江戸時代の寛文期に龍蛇を使った行事が加わったという。ここでも、水の神=蛇=龍=雨乞いの神という構図が成立している。
龍泉寺に戻ろう。雨乞いの代参風景であるが、これは多くの文献が記録している。
大淵(後世は、寺の裏の井戸)での祈祷が終わると、竹筒に「龍神が感応した霊水」を詰め、代参者は、自分の村へ向かって走ったという。途中で止まると、その場所に雨が降ってしまうとされた。遠い村では駅伝方式で水を運んだ。大正年代になって汽車が通ると、代参者は客車内でも駆け足したというから真剣だ。村では霊水を畠に撒くほか、井戸に流し入れた。
大淵は、荒川の支流である入間川の源流のひとつだ。絶え間なく清浄な水が沸きいずる場所は、古来より信仰の対象となった。
武蔵丘短期大学助教授の鎌田東二さん(神道学)によると、全国に龍泉寺と名の附く寺があるという。その位置は名栗村と同じく、川が落ち合うところであり、山伏が奉祀したものもある、という。龍泉寺の龍神宮の主祭神は、じつは大淵龍王ではなく、八大龍王である。この神は、荒川上流の秩父市、今宮神社と関係が深い。古くは「八大宮」と呼ばれ、水の神である八大龍王を祀る修験道の霊場だ。
祭神はともかく、大淵の霊水は、村々へもたらされた。
その多くが、荒川の下流域であった。
見沼たんぼと龍
見沼たんぼは、川口市とさいたま市にまたがる緑地を含む一帯を指し、その広さは芦ノ湖の二倍で、首都圏に残された数少ない田園地帯である。
かつては見沼(御沼)という大きな沼があったが、享保一三(一七二八)年に完了した干拓による新田開発によって、「見沼たんぼ」になった。
この見沼も、龍神(蛇)に関する伝説と昔話に彩られる。
昔、まだ沼が満々と水を湛えていたころ。夕暮れ、どこからともなく美しい笛の音が流れ、若者が一人、また一人と沼のほとりから消えていった。村にはだんだん若者がいなくなって、困った村の人たちは、「これは沼の主の怒りに違いない」と考え、沼の主の供養をねんごろに行った。すると、不思議な笛の音は聞こえなくなり、行方不明になる若者はいなくなった、という。
まるで、ハーメルンの笛吹き男を髣髴とさせるが、この沼の主は「おたけさま」といわれる龍神で、その名からか女性神とされた。さいたま市に住む鎌田さんは「猛々しい、という意味の名では?」という。
見沼一帯には、龍神とかかわりの深い出雲系の部族が入植した。そのことは、原初の武蔵野国一の宮とも推定される氷川女体神社をはじめ、氷川神社が数多く祀られていることでも解る。氷川は簸川で、出雲大社の所在地であり、須佐之男命が「八俣の大蛇」を退治した舞台である。大蛇は、龍に通じる。
ところが、八俣の大蛇は地祇(くにつかみ)の娘をさらう。男性的存在である。
武蔵国の見沼の龍(もしくは蛇)が女性なのは、なぜだろうか。氷川女体神社といい、「女性」が強調される。
鎌田助教授は、
「古代、ある部族が新しい土地に入るときは、先住者と戦うか融和するかでしたが、普通は先住者の信仰が徹底的に排除することはなかった。つまり、スサノオという男性神を信仰する氷川一族が出雲からやってきたとき、この土地に女性神格を強く持つ部族がいたのかもしれない。でなければ女体神社ができるわけがない」という。鎌田さんによると、出雲では主役ではない櫛稲田姫が、見沼では信仰の中心になっている、と指摘する。
また、四国生まれの鎌田さんにとっては、のっぺりとした関東平野はじつに女性的だという。山々が連なる出雲の人々にとっても、その感慨は同じだったろう。
見沼の龍神さまは、よく人間の女の姿になった。
将軍吉宗に命じられ、見沼の干拓を指揮していた井沢為永の枕元に現れたのも、美しい女性だった。彼女は井沢に嘆願する。「私は、見沼の龍神です。この沼が干されてしまうと、すみかがなくなってしまうから、新しい場所を探すまでの九九日間、工事を中断してもらえないでしょうか」と。井沢は工事を続行する。が、はかどらない。またも井沢の夢に、例の女性が現れ、「せめて三町でよいから、沼を残して欲しい」と懇願する。しかし、井沢は自分の一存では決められないため、万年寺の境内に龍神を慰めるためのご神燈(龍神燈)を捧げた、という。毎年八月一五日の例祭には、誰が灯すのか龍神燈が万年寺や氷川女体神社に掲げられたが、それは龍神の仕業であったという。だがある年、龍神は燈明を掲げる姿を人に見られてしまう。そして、「もう、私は姿を見せることはないでしょう」と言い残して、消えるのだった。
開発され、二度と蘇ることのない「太古の自然」。その象徴が龍神だったのもしれない。
龍神をなだめすかして最後には屈服させたという一連の伝説や昔話は、見沼の開発史、いいかえれば自然界と人間界の交渉の過程とオーバーラップする。そして、居場所を奪われた龍は、河童と同じような小さき神として、人々の物語のなかにしか存在できなかった。
左甚五郎が彫り込んだ龍を釘で打ち、悪龍を封じ込めたという国昌寺の開かずの門、耳のある大蛇が寝ていたという五斗蒔橋などを見て回ったが、それらは、物語のなかで龍が登場したという「場所」に過ぎなかった。
それは、当然のことである。
見沼は江戸中期の干拓以降、人々が生活する世界なのだ。龍の世界ではなかったのだ。しかし、江戸の開発以降でも、「龍」はまるで伏流水となって、この土地や人々の信仰の古層に沁み込みながら、命脈を保ってきたのではないだろうか。人々はまだ「龍」を体感できた。なぜなら、自然と交渉する若干の術を持っていたから。その痕跡は、伝説や昔話、神社や寺院の祭礼のなかに垣間見られる。
平成の現在、見沼たんぼにも、宅地化の波が及んでいる。田舎くさいという理由で、地図から「見沼」を抹消しようとする運動も起こっている。
そこはもはや、「龍」とは没交渉の世界だろう。
〆
『FRONT』2003年4月号掲載
合掌。
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