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忠実なよい僕だ
よくやった
主人と一緒に喜んでください
(マタイ25-21)
“Siervo bueno y fiel entra en el gozo de tu Señor”
(Mat.25-21)
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2007年3月10日、JRの四谷駅の階段を上ると、一点の曇りもない快晴だった。
パドレ・マルティネスに、しばしの別れをするために、聖イグナチオ教会のマリア聖堂へ向かう。この日は、雑誌「SOGI」の取材で訪れた。在日のラテン系コミュニティー関係のスペイン語メディア以外は、彼の葬儀も生涯も取り上げてはくれないだろう。だが、パドレ・マルティネスという存在は、日系ペルー人の歴史を語る上で、欠くことのできないものであると思う。たとえそれが、良きイエズス会司祭の「平凡な」生涯だったとしても。
そして僕は、書くことでしか、彼に応えられないのだから。
そういう意味でも、雑誌「SOGI」の存在は、ありがたい(雑誌「SOGI」のライターとして言えば、カトリックの葬儀は、かなり好きだ)。
施行する葬儀社との約束の時間は、開式の1時間前の午前9時30分だった。
少し早くついたので、大聖堂の土曜ミサを拝見する。改修が済んだ教会は、全体的に簡素で都会的な造りになっていて、なにかますますプロテスタントの教会ように見えてしまう。
時間になったので、カメラマンの関戸さんと合流し、マリア聖堂へ。祭壇等の写真撮影を行なう。柩がない。聞けば、目下、火葬中とのこと。つまり、事情があってこの日の朝早くに火葬にしてから、会場に遺骨を運ぶというのだ。
骨葬にした理由は、宗教的もしくはパドレの出身地の慣習等によるものではなく、早く火葬にしなければならない極めて個別的な理由があったためだ。
前日、「葬儀ミサは骨葬だよ」と聞いていたが、こういうことかと理解した。
在東京ペルー総領事館の供花のネームカードがスペイン語だった。施行社の人に「芳名板に日本語で書きたいが、どう書けばいいのですか?」と質問されたので、手伝う。
式前には、パドレと親しかったエルマーノ(修道士)・エルナンデス(スペイン出身)と、パドレ・マルティネスの僚友で、日本での国際布教の先頭に立つパドレ・マギーナ(ペルー出身)に、パドレ・マルティネスについての質問ができたのは幸いだった。むろん、二人とも日本語は完璧。こちらからは、スペイン語で話しかけた(礼儀だろう)。
しかし、やはりカトリック教会はすごい。日本の「内なる国際化」にきちんと対応している。デカセギ労働者を排除しない。日本のほとんどの宗教団体(とくに伝統教団)は、未だに「国際布教」は海外へ、という認識しか持っていない。日本国内でいえば、ホワイトカラーのみだ。明らかな偏見。人種差別。
思えば、伝統教団に憤慨して、よく、パドレ・マルティネスに意見をぶつけたものだ。そういうときのパドレは、巌(いわお)のように動ぜず、しかし、晴れた日の森のように穏やかな笑顔をたたえて、
「カトリックのカミサマは、富士山と一緒ですよ」と、変化球で諭してくれた。
議論が突っ込んだものになると、位牌論・仏教経典論などで盛り上がった。「仏陀の名前を連呼するだけのお経に、どんな意味があるのですか?」
家庭のことについても、よく話をした。多くの日系ペルー人の家庭同様、うちも結婚式ではパドレにお世話になり、二人の子どもの洗礼もしてもらった(上の子はペルーで。下の子は日本で)。
忘れえぬ先生だった。
開式の少し前に、遺骨が到着した。
そして、開式。
「ヒロヒト。私のね、横顔はあんまり写さないでくださいよ」と冗談交じりにパドレが言っていたことを、なんとなく思い出す。
「上智で教えていたとき、学生が『花王』って言うんですよ」
アゴが長いから、とのこと。
目が滲む。
* * *
式では白い祭服を着用した20人を超えるイエズス会司祭が列席し、「素晴らしい同志を世に送り出してくれた神に感謝を捧げた」…と、カトリック風に書けばこういうことになるのだが、こちらはただ、「悲しい」の一言。
涙が止まらなくなり、声を押し殺して聖堂の隅で突っ立っていると、葬儀社の方(この方も、立派なキリスト者だった)が、「聖体拝領しなよ!」と誘ってくださる。
この葬儀社は、まったく宣伝をしないし、いずれかの神父の紹介でなければ葬儀を受けないという。キリスト者の帰天に心を込めて奉仕したいから。
聖体拝領のために、祭壇に近づく。語りかけるような頬笑みの遺影をあたらめて、…見ようとしたが、焦点が合わない。作法も何もなく、聖体拝領し、せんべいを噛み砕く。しょっぱい。
告別式でロヨラ・ハウスのリベラ館長が挨拶した。
「ルーチョ(ルイス・マルティネスの愛称)の人生は、旅でした。スペイン時代も数多くの土地で仕事をし、日本、ペルー、そして日本と。しかし、その旅は、自分で決めた旅ではありませんでした。でもルーチョは、言われれば、どこへでも喜んで出かけました。
そして最期にたった一つだけ、自分で決めた旅をしました。それは、帰天です」
パドレ・マルティネスは昨年12月26日に入院し、その後、一時退院。3月7日に再入院が決まっていたという。その日の朝、自分のベッドで逝去した。再入院を、嫌がっていたという。
* * *
私は、カトリックの洗礼を受けていないし、カトリック教会にそれほど親しみを感じていない。そんなことは百も承知で接してくださったパドレ・マルティネス。
「日系ペルー人に対するカトリックの布教史を調べて、何かの形で発表しましょう」という二人の約束を、私は決して忘れません。ただし、その布教史の1ページに、あなたの人生を過去形で書かねばらないことが、とても悲しい。
「ヒロヒト、疲れたときはね、コカ(コーラ)ですよ。びんびんになりますよ」
ルイス=サンティアゴ・マルティネス=ドゥエニョス先生、
どうぞ、これからも見守っていてください。
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写真:葬儀ミサの風景
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