2007年9月4日火曜日

(墓67)日本を救うテクノロジー、そしてデカセギの未来~日本の製紙業を例に~

●製造業の危機とデカセギの危機

日本で働く少なからぬデカセギが危惧しているように、日本の工場は、次々と閉鎖を余儀なくされている。なぜかというと、製造業における単純工程が、労働力の安い中国やフィリピン、東欧などに大量に流出しているからである。なかでも中国は、外国資本の工場(その多くが先端技術を有する)を受け入れると、最新技術のノウハウを自国に吸収したうえで、用済みとなった外資系企業を追い出す段階にまで来ているといわれる。今後は、彼らが望むとおりの経済的超大国になるのだろうか? もしそうなれば、デカセギを受け入れる余力は、日本からは失われるだろう。

さらに、入管の取締りが厳しくなったとはいえ、日本国内の不法滞在者が、合法的な外国人デカセギの生活と職を脅かし続けている。不法滞在者は、給料が安くても働くといわれている。ところが、(しばしば家族同伴で)稼ぐことを至上目的として来日するデカセギたちは、安い給料ではとうてい働けない。

瞥見すれば、日本の製造業とデカセギは、ともに危機的状況にあるといえるようだ。


●製造業の反撃

先日、ある英字新聞の取材で、紙の品質検査機メーカーでは世界でもトップの「Lorentzen & Wettre」社(本社:スウェーデン)の2003年にスタートした日本支社(静岡県富士市)を取材した。富士市といえば、世界有数の製紙メーカーの伝統的な産業集積地(City of Industrial Clusters)。ここでは日本の製紙シェアの13%を生産する。これは、世界全体では5%程度のシェアといわれる。たった5%ではあるが、限定された地域にこれだけの製紙産業が集積するのは珍しい。

紙というと、私達がすぐに想像するのは、わら半紙(もしくは新聞用紙)、コピー用紙、トイレットペーパー、上質紙etcであるが、これらはもはや日本ではほとんど製造していないような気がする。実際、ここ数年で国産のコピー用紙はまったくといっていいほど見かけなくなった。多くは、インドネシア産だ。こういった「単純紙」の国内生産は、年率で2~3割も減産されているそうで、近い将来、リサイクルペーパーなどの一部の例外をのぞき、日本ではまったく作られなくなるだろう。

そのような逆境のなか、なぜLorentzen & Wettre社は日本に進出してきたのだろうか? その背景には、静岡県の外資誘致のための優遇措置もあるだろう。1986年に始まった例のGATT ウルグアイ・ラウンド以降、日本の工業界にはISOの国際工業スタンダード導入が進んだ。紙の品質測定機でも従来のJIS(日本工業規格)からISOへの転換が迫られたため、ISOに強い影響力を有するLorentzen & Wettre検査機の日本市場における明るい展望も、彼らの日本進出の要因として挙げられるだろう。しかし、実際には「日本の製紙業界は新技術の開発で絶好調」なのだ。

単純紙のシェアは、諸外国が独占した。しかし、日本には発展を続ける高い技術力がある。たとえば、携帯電話を軽量化・小型化させた主役も、なんと紙である。具体的な商品名は王子製紙が開発した「アラミドペーパー」だ。これは、高速演算処理を目的とした低誘電率基盤のための新積層板原紙。精密機械内部といえども、これまでの基盤は堅いボードに無数のマイクロチップを埋め込んで半田付けしたものだった。そんな大掛かりな「装置」を一枚の紙で代用することができるのだ。このカミは、機械の内部で折り曲げて収納することもできる。

さらに、家庭用のマット紙。家庭の安いインクジェット・プリンターで、紙焼きした写真や業務用のレーザー・プリンターと遜色ない出来栄えの印刷が可能になり、日本ではもはや当たり前になっている。マット紙は、日本の各メーカーが世界のシェアのほとんどを独占している。単純紙では大幅な落ち込みが続くが、付加価値の高い特殊紙ではそれをカバーして余りある高成長を遂げているのが現状である。ここで誰しもが考えることは、「では中国などが積層板原紙やマット紙などの特殊紙で日本の技術に追いついたら?」。しかし、これも多くの人が可能性として考えるのは「その頃には、さらに新しい技術を日本人は考えるはずだ」。少なくとも、メーカーの技術人たちは、日本の技術の終わることのない飛躍を信じているに違いない。個人的には、日本の技術力はそれほど限りない発展を続けるとは思えないのだが。


● デカセギの「苦難」は「転機」か

今後、生き残っていく日本の工場ではますます技術の高度化が進んでいくということになる。もちろん、産業・業態によっては、高度化が緩慢に進む場合もあるだろうが、比較的単純な作業だけでいい、という工場は、長期的には海外に移転していかざるを得なくなる。そんな未来に対応するためには、デカセギたちは、高度な日本語力を習得するか専門的で特殊な作業経験を積むか、他業種への就職を本気で模索していく時期にそろそろ来ているのではないだろうか。人によっては、在日デカセギにとっての苦境と思うかもしれないが、転機ともいえる。たとえば、ペルーに渡航した初期の一世たちが労働契約を結んだのは、耕地だった。当時は、耕地で生産される砂糖が、ペルーの代表的な輸出産業であり、先端産業だった。日本人の農業移民の都市進出と商業移民化は、砂糖産業の零落と決して無縁ではない。耕地の労働が厳しかったから皆が逃げ出した、というように単純に考えることは、ある部分では妥当ではないと思う(それは後世、半分くらい脚色されたストーリーだ)。

かつてのペルーの耕地を、現在の日本の工場に置き換えて考えてみることはできないだろうか。「日本で商売するのは困難」だと多くのデカセギがいう。たぶん、そのとおりだろう。厳密に言えば、在留資格の規制にも抵触する。さらに、顧客となる日本人のメンタリティは、デカセギからみれば特殊、ということにもなろう。ということは裏を返せば、日本にいるペルー人「だからこそ」活躍できる分野がある、ということになるのである。
【2004年、ペルーの雑誌に寄稿した原稿の日本語の原文】

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