ひょんなことから戦後五〇年間の日本の産業デザインを調べていたら、南米のペルーでいまも普通に使われている炊飯器やミキサーが、五〇年代のデザインそのままってことを知った。
東芝が電気釜を世界ではじめて開発したのは、敗戦から十年後の一九五五(昭和三〇)年。スイッチひとつだけのシンプルな操作と、いかにも機能的な外観が印象的だった。外観(フォルム)が、プロダクトの機能を代弁するという意味での「機能性」と、人間工学的な視点を取り入れ、使い勝手のよさを追求した「機能性」がミックスされ、“機能主義デザインの逸品”ともいわれる。
この電気釜は、一九五八年のグッドデザイン(Gマーク)選定商品になっている。
それから、ミキサー。
戦後、アメリカのホームドラマが大量に輸入された。金髪美女のアメリカ人主婦が使いこなす電気製品は、まさに金ぴかだった。冷蔵庫や洗濯機とならんで、日本人主婦の睡涎の的だったのが「オスター社のミキサー」だ。これ、現在では日本市場から駆逐されたが、日本のメーカーがミキサーを売り出すまで、ダントツの人気を誇っていた。銀メッキで、アルミダクトを連想させる光り輝くモーター部が特徴。これもペルーで現役だ。
また、電気湯沸し器。単純にいうと、金属またはプラスチック製のポットの底部に電熱線を入れただけの仕組みで、五〇年代の日本でよく使われていた。ということも、調べ物をしていた段階で知ったことで、ぼくがペルーに住んでいた九六年から二〇〇〇年には「ペルー人って、いろいろ発明するなあ」と思った程度だった。
ペルーでは貧困地帯を中心に、ガスコンロを持たない家が多い。山登りする人にはおなじみの「ラジュース」という灯油コンロを家庭で使っているところもある。
ぼくがはじめに住んだ、六畳ていどの一間もそうだった。この部屋は、便所とシャワールームとの間仕切りもなく、ほとんど囚人の独房で、家賃は月一〇〇ドル。そのころ働いていた日系ペルー人の新聞社の給料が一八〇ドルだったから、夜はバイトをする始末だった。
ところで、外国で暮らしていると無性に銀シャリとみそ汁なんかが恋しくなってくる。ぼくも、そんな「発作」に襲われたことが何回かあった。
何度も、電気釜を買おうと思った。が、最初の一年は本当にびんぼうで、買えなかった。メシといえば露天のハンバーガーか、貧民街の定食屋。しかも1ドルにも満たない定食からわざわざスープをはずしてもらって、無理やり値段を値切るという状態だった。普通は、スープを抜いても値段を下げない。
「たらふくコメの飯が食いたい!」
それは願望を通り越して、夢に近かった。
ペルーでは、コメをよく食べる。インディカ米というパサパサした長粒種と、多少もっちりとした大粒種のカリフォルニア米、またはこれらを交配した米が売られている。
肉や魚をスパイスたっぷりに調理するペルー料理は、コメとよく合う。コメは百五十年前に中国人移民が持ち込んだ。醤油もある。これも中国人によるといわれるが、旨い醤油は日系人が作ったものが有名。現在のトップメーカーは味の素。日本では見かけないが、ペルーでは味の素ブランドの醤油が作られている。そして、肉も安い。
ジャンク屋から電熱器とフライパンで、ためしに牛肉を醤油で炒めたところ、部屋が煙だらけに。しかも隣家(普通の民家)が中庭で若鶏を飼育しているため、そこのハエがいっせいに飛び込んできて、悲惨な状態になった。流しもないから、皿もまともに洗えない。もちろん、米なんて研げない。
電熱器での調理に見切りをつけたぼくにとって、安い電気湯沸し器だけが唯一の家電になった。
首都リマ市のセントロという低所得者層が占める旧市街で買ったもので、定食二回分くらいの値段だった。いちばん安い製品で、プラスチック製。それも強化プラスチックとかではないので、沸騰すると有害物質が溶け出しているんではないか? と思われる品物だった。
この電気湯沸し器、一回使うと、錆が出た。電熱線に直に水が接触しているわけだ。一度、コンセントを差し込んでいるときに指を突っ込んだら、さすがにビリビリっときました・・・。
リマ市の冬は寒い。セーターは必需品だ。そんなわけで、この電熱器で湯を沸かし、コーヒーを何度も飲んだ。けっこう役立った。錆も相当飲んだような気もするが。
新聞社の広告係の二世のオバさんが、この電熱器の上級品を使っていた。胴体は金属製で、ニクロム線と水が直接接しないから錆も出ない。日本語があやふやな彼女の「オオタさん(ぼくのこと)、おちゃちゃしましょ」という言葉が、妙にいまでも印象に残っている。
そうこうするうち、日系人と結婚することになった。で、多少広い部屋へ。もちろん台所付きだ。そしてついに買ったのだ。電気炊飯器を。
その電気釜の操作はえらく単純で、ひとつしかないスイッチを押して「炊飯」。できあがったらスイッチがはねあがって「保温」。そのころはまったく気付かなかったが、形状は五〇年代の電気釜とそっくりだった。
それは、ともかく。
炊きましたよ。
そして、ほかほかのごはんを食べましたよ。おかずなしのストレートで。
その感動といったら・・・。
ミキサーも買うことにした。で、またしてもセントロへ(新聞社がここにあったため)。
五〇年代の日本でのエピソードなどは知らなかったが、オスター社というのはペルーでは知られたブランドだ。ちょうど新聞社の門を出てすぐ左隣の民家で、ミキサーを売り出していた。聞けばオスター社製という。値段も、相場の三分の一だ。中古ではないという。
ところが、店のおばちゃんの挙動が変。陳列棚には、下半分のモーター部だけがあって、店の奥の工場らしき騒音のするところから、上半分のガラス製の撹拌(かくはん)部分を何個か持ち出してきて、それぞれをはめ込み、「うまく収まった」一組を差し出したわけだ。これってつまり、ペルーお得意の海賊製品?
一抹の不安を抱え、いざ使ってみると、モーター部と撹拌部の合わせ目から水が漏れるわ、モーターから突き出した軸棒からは黒い油が染み出るわの有様だった――。
なお、誤解を避けるために言うと、ペルーで昔のプロダクトが何十年も使われているわけではない。現在も「あのころ」のままのデザインで生産されているということ。
そして、新品を買うより修理したほうが安い。つまり、大量消費社会ではないのだ。大量消費社会では、消費をあおるためのモデルチェンジやデザインの複合/再生産がたびたび行われる。ペルーでは、まだそこまで行っていない。だから、古いものにマイナスの価値観が負荷されない。八三年に発売された初代のファミコンも「ニンテンドー」という名で、立派に流通している。
ところが、インターネットが普及し、ペルーもいやおうなくグローバル化の波に飲み込まれている。ゲームでいえばプレステも入っているし、アニメのオタクも増加して「エヴァンゲリオン」はリアルタイムで楽しまれていた。
「懐かしい家電」も、近い将来すがたを消すのかもしれない。
〆
ミリオン出版発行、「GON! special ガタリ」Vo.01(創刊号で廃刊)掲載
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