2007年9月7日金曜日

(墓77)2003年春、SARS流行期。香港へ行った

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自殺? そんなわけがあるはずない

 五月二二日から二四日まで香港および澳門(マカオ)へ、取材に行った。
 「香港へ行く」ということを、「自殺行為」と捉えた知人も、周囲には何人かいた。滞在期間中の二三日には、世界保健機構(WHO)が香港(および広東省)に対する「渡航延期勧告」を解除したが、日本では現在でも「香港へ行く」ことは、危険行為とみなされている。
 だが実際には、香港の人々は日常の生活を送っていた。患者からの飛沫感染対策で、地下鉄内やバスの車内、駅など、混雑もしくは密閉された公共スペースではマスクをつける人が多かった。しかし、つけてない人もいた。なお、日本~香港への往復はノースウエスト航空だったが、乗務員はマスクをしていなかった。
 マスクをつける/つけないという泡沫的議論はともかく、香港は活きていた。通常どおりに子どもは生まれ、老いた者は死んでいった。人々は働き、経済は動いていた。
 夕刻、次のインタビューまでに時間があまり、澳門行きのフェリー埠頭の隅で、船の出入りや釣り糸を垂れる人たちを見ていた。後ろのベンチでは若い二人の中学生の男女がじゃれあっていた。放心したように海を見ている人たちもたくさんいた。本を読んでいるサラリーマンもいた。むろん、感染経路が明瞭に判明され、患者との濃密な接触や飛沫感染を防げば、日常生活には支障はない病気だという認識が香港において広まりつつある時期でもあった。
 たしかに、未知の伝染病は原始的で本能的な恐怖を我々に与えるとはいえ、SARSアウトブレイク(爆発的な感染拡大)の張本人はウイルスそのものではない。マスコミだ。“感染地帯”の人々がマスクを着用した写真が配信されれば、「あそこの人たちは皆、マスク着用か」と思いがちだ。絵になる写真ばかりを報道したマスコミに非がある。「地下鉄からは人が消えた」などの一般的ではない特殊な事例を強調し、いたずらに恐怖を煽ったのは、だれか。そして、それを鵜呑みにしたのは、だれか。


在外公館、ここでも不評? SARSで露呈、香港総領事館の機能不全

 重症急性呼吸器症候群(新型肺炎/SARS)が集団発生した香港で、在住の日本人(在港邦人)たちは、在香港日本国総領事館に対する不信を強めている。
 その原因は、SARS騒動への総領事館の対応の不味さだ。たとえば四月の上旬、外務省福利厚生室の医務環が香港に臨時で出張し、「個別相談」を行うことになった。が、案内が直前になったうえ、「広報が徹底していなかった」(在港邦人)。しかも当初は、「御相談を希望される方が多い場合は、お断りすることがあります」(在香港総領事館のホームページより)という不誠実なものだった。
 さらに、SARSに関する説明会の開催が四月九日に急遽決定したものの、会場は一〇〇人程度しか収容できない香港日本人倶楽部「松の間」だった(在港邦人は約二万人)。さらに「座席数が限られておりますので、希望者多数の場合には、入場を制限させて頂くこともあります」(同上ホームページ)という、あいかわらずの“切り捨て”姿勢が目立つ。はじめからこんなスタンスなので、当然、広報も行き届いていない。当日集まったのは、領事館のホームページを見た人だけが中心。それでも数百人が集まった。会場に収容できない。そこで、説明会を計四回に増やした。当初は、午前と午后に一回ずつだった。

 当日の医務官の説明も「推測に基づく発言ばかりで、かえって不安になった」(参加者)というもの。さらに、会場の選択ミスは領事館の責任であるはずなのに、説明会の担当者は、最終回において参加者を前に「私はもう、同じことを三回も喋っている。疲れてます」などと暴言を吐いている。
「総領事館は、これまでも広報が不得手だった。在港邦人全体への連絡体制も確立させていないし、する気もないようだ」と、香港在住一三年目の男性が憤慨する。今回のような“非常時”でも、日曜日は完全休館という下駄の高さ。これでは紛争やテロ、大規模災害などが香港で発生しても、邦人の安否確認など望めない。
 これは、香港だけのケースなのだろうか。
(2003年に書いた記事。某誌にて不採用、某誌にて採用)

追記。
香港の邦系企業の駐在員の家族は、今秋のSARS流行をうけて、
いっせいに日本へ帰国したが、
一時保育などでは、「香港帰り」の子どもの預かりを拒否する
保育園もあった。
実際わたし自身、自分の子どもが通う保育園では、
送り迎えのときに「香港行ってました」とは
言えない雰囲気だった。