ペルーのアナゴに想いを託す
日本の食卓を支える名もなき男たち
海洋深層水の湧昇域であり、寒流と暖流が交叉するペルーの豊かな海。カタクチイワシ(アンチョベータ)漁は有名で、ペルーは一時、世界第1位の水揚げを誇った。そのほとんどが飼料・肥料用のフィッシュミールに加工され、日本にも輸出される。
最近では、ペルー産のイカが日本の食卓に並ぶ。ペルーのマグロやカツオなども輸入されて久しい。そして現在、ペルー産のアナゴがじわじわとシェアを伸ばしているという。実際、スーパーで「ペルーのアナゴ」に出会えることも珍しくない。味も日本産のアナゴに近く、上質である。
旅客機に乗っても20時間以上を要する遠方の国から、いったいどのような経緯で、日本人の好きな「穴子」が輸入されるまでになったのだろうか?
川田武二+ペルー=アナゴ対日輸出
ペルー産アナゴ。対日輸出の先鞭をつけたのは、マルハ系の現地法人SAKANA DEL PERU【サカナ・デル・ペルー】株式会社。川田武二さん(64。2004年末当時)は、その責任者だ。
この人がいなかったら、ペルー産のアナゴが日本へ供給されることもなかったし、そもそもペルーでは、アナゴは「埋もれた」ままだったろう。現地では「気味悪い生き物」として、まったく見向きもされない魚だったのだから。
川田さんが初めてペルーへ赴任したのは1967年、26歳のときだった。国連職員を夢見て、貿易関係の仕事をしていた彼は、たまたま知人から「ペルーの捕鯨基地で働かないか?」という誘いを受け、ペルーへ。魚の専門家でもなかったし、南米に特別な感情を抱いていたわけでもなかった。
85年に商業捕鯨のモラトリアムが発動。数百人規模のスタッフの解雇や工場の整理に追われた。そして生き残りを賭けて、
「メルルーサやカニ、貝など、いろいろ試したんですが、日本向けの質・量を満足させるものがありませんでした」と、川田さんは振り返る。口にはしないが、その数年間の苦労が表情に浮かぶ。
そして90年代初頭、ついにアナゴにチャレンジすることになった。
「アナゴがいることは分かっていました。桟橋で釣りをすると、よく掛かるんです。でも、漁民にものすごく嫌われてましたね。グニャグニャしていて。誰も食べませんでしたよ。そんなものが外貨を獲得するなんて、ひとりも思わなかったでしょう」
スペイン語を公用語とするペルーでは、アナゴはanguila【アンギーラ】と呼ばれる。沿岸には約5種類のアンギーラが棲んでいるという。
「アナゴは多くの国で捕れるのですが、種類が少しずつ違います。骨が多かったり。調べてみると、日本のアナゴ(の食感)に近い種類がペルーにもいることが分かりました。この種が、資源量も一番多いようです」
まずは、漁師と工場スタッフの教育から着手した。誰も捕ったことがなく、フィレ(三枚)におろすといっても、経験がないからだ。
漁場は、赤道に近いペルー北部のパイタ周辺。捕鯨基地が、パイタにあったためだ。漁船は20トン級の小型のものを使い、四万十川のウナギ漁で使われる「ころばし」のような筒状の罠を海底に沈める(写真参照)。アナゴは、この筒に入ることはできても、出ることはできない。そして、アナゴを生きたまま罠ごと引き揚げていく。
「アナゴは、フィレにするときまで生きていないと駄目なんです」
以前はパイタで水揚げをおこない、そのままアナゴを工場に運んだが、現在は漁場がパラチケという場所に移動した。工場のあるパイタまでは車で2時間。そこで、水揚げ後すぐにパラチケの港でフィレに捌き、捌いた身をパイタの工場に運び、冷凍と箱詰め、日本への出荷をおこなっている(パイタから直接、船便で日本へ)。
スタッフには、骨抜きと血抜きもいちから教えなければならなかった。日本や韓国へスタッフを派遣して、工場を見学したりもした。とくに、捌き方を教えるのに時間がかかったという。しかし、
「ペルーの人は真面目で手先が器用です。いまでは、機械で捌くより速いほど、皆熟練しています」
10年を超える経験によって、漁師たちも達人の域に近づいたようだ。気候に合わせて、アナゴも居場所を変えるのだが、漁師はそのポイントを的確に探し当てるという。
当初は年間500トンほどで始めた日本への輸出も、いまでは年間1000~1200トンに。日本近海でアナゴの漁獲量が減り始めたことや、回転寿司にアナゴが導入され、需要のすそ野が広がったことも追い風になった。
「いまさら、日本へは帰れない」
SAKANA DEL PERU社の成功を受け、ペルーや韓国資本の企業も、アナゴ漁と輸出を始めた。そこで、アナゴの資源量に懸念を表明する声が、ペルーでも出始めている。
もし仮に、ペルーの水産当局による資源管理が開始された場合、せっかくここまで市場が広がったペルー産アナゴには逆風となる。だが彼は、コントロールには「賛成」だという。一時的な制限が加わったとしても、
「長い目で見れば、われわれ水産関係者にとっては、資源が持続してくれたほうがありがたい」から。
川田さんは、アナゴの輸出を軌道に乗せるため奮闘を続けた。そしてそれは、軌道に乗った。工場では約300人が働き、自社船は4隻。このほか、10隻の船からの買い付けもおこなう。つまり、雑魚同然だったアンギーラという「眠れる鉱脈」を発掘したのだ。そして、良質のたんぱく質の供給源を、日本人に確保した功績も大きいといえる。安定した雇用を創出した点も、ペルーにおいては高く評価される。だが、
「長い間こっちで暮らしているうちに、私は、日本では通用しなくなった」
日本の会社文化から遠ざかって、ペルーで会社を切り盛りしているあいだに、日本での“人とのつながり”は、いつしか消えていた。
初めて赴任したときは、「汚ねえところ」としか感じられなかったペルーだったが、それからすでに約40年の歳月が流れた。
「毎年、業務の相談やらで日本へ行きますが、ペルーに帰ってくると、ほっとするんですよ」
57歳で定年退職した。その後は単年契約を繰り返し、“健康が許す限り”働くつもりだ。同社の社員14人のうち、日本人は川田さんだけ。後任の日本人社員は、なかなか来ない。
安全かつ美味しいペルーの「穴子」
ペルー人は魚を常食してきた。煮付けにもするが、多くの家庭ではフライがもっとも普通の調理法だ。生食もする。その料理の名は、ペルー風マリネ「セビチェ」。タイやヒラメなどの切り身とレッドオニオンをレモンの絞り汁で合え、ニンニクと辛子、香草、岩塩で味を調える。ペルーを代表する名物料理のひとつだ。
ペルーでは白身の魚が好まれるため、アナゴの需要もありそうだが、
「ペルー人は鱗のない魚を食べません」というのは、リマ市内の日本食レストラン「ICHIBAN」のオーナーであり、料理人でもある中川博康さん。
日本食レストランのペルー人客や、川田さんの会社のスタッフなどがアナゴを食べる「通な人たち」だ。川田さんは、中川さんの要請を受けて、ICHIBANにアナゴを卸している。
川田さんと一緒にICHIBANへ行った。
穴子柳川もうまかったが、川田さん絶賛の穴子唐揚げは、日本の料亭にもひけを取らない。深い味わいである。
江戸前が尊重されてきたアナゴ。ペルー産が日本で流通する最大の理由は安さにあるようだが、日本近海の海底に沈殿するダイオキシンによる汚染が心配される現在、清浄な深層水と外洋の海水に育まれたペルー産アナゴは、味と安全性の面からも、もっと評価されていいだろう。
写真=工場でアナゴをさばく同社のスタッフ。
水の文化情報誌『FRONT』2004年12月号掲載
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