繁華街や駅で見かける、托鉢する人たち。あるとき、渋谷の飲み屋のママが教えてくれたが、くだんの托鉢僧が「仕事帰り」、中央街あたりで大酒食らっているのは有名らしい。
知り合いの禅宗の坊さんに聞いてみたら、「たいがいの托鉢僧なんて、どこの宗派にも属さないニセ坊主」だそうだ。
その僧によると、一部は某団体が組織的に運営する。暦占などで有名なこの団体(仏教とは無関係)、托鉢僧にはバイトを動員するという。バイトって、あり?
とにかく、儲かるらしい。
繁華街だと1日に一人で約10万円の「収入」になるとか。が、バイトの日当は1万程度というショボさ。まあ、立ってるだけって言えなくもないが…。修行僧は都内だけでも40か所くらいに配置されるから、1日で400万円の売上だ。バイト代を引いても、360万。これを月に25日やったら、9000万円。諸経費引いても、8700万くらいは儲かる。1年で、少なくても10億円の非課税収入。こんなおいしいシノギをヤクザが見逃すハズはない。だいたい、ショバを仕切っているのは彼らだ。で、バックに“本職”。路上営業も安心だ。
Yというれっきとした寺院も手を染めていた。やり方はハンパじゃなかった。
修行僧に東南アジアからのデカセギ労働者を動員していたのだ。笠で顔が隠れるとはいえ、話し掛ける通行人もいるだろうし、バレなかったのかだろうか? そこで登場するのが「達磨行の最中」という言い訳だ。ダルマ大師にあやかり、一心不乱の修行中。だから私語は一切禁止、というらしい。これが効果てきめんらしい。
もちろん低賃金だ。というか、不法就労のあっ旋だ。さすがにこれは仏教界で問題になった。いまは止めたらしい。
こういう裏事情を聞くと、托鉢なんて胡散臭い気になってくる。無論、修行僧のなかには本物の聖職者もいるだろう。だが、「インチキ」な托鉢もまた、本物の宗教家だ、と思う。
ちなみに、仏教を含む世界の宗教宗派のほとんどが聖職者の資格を設けている。各宗教宗派には行政機関が存在し、そこが発行する資格を持たないと「ニセ聖職者」になるわけだ。本物の宗教者と俗な宗教者を分けるのは、修行経験の有無でもあり、俗に言えば資格の有無である。ところが、昭和初期までは「資格をもたない」「食うためだけの」遊歴の俗宗教家が日本にも生きていた。彼らは職業的な「乞食(こつじき)」に含まれる都市の浮遊層。貧民窟といわれた最下層地域の住人たちだ。俗宗教家には虚無僧、托鉢僧、祭文語りなどがいた。宗教家以外では、遊歴の門つけや物乞いもいた。物乞いといってもルンペンじゃない。どっかの大学で「万歳!!」を叫ぶサークルがあるが、アレもそういった職業的コツジキの一種だった。外国では、まだそんな人たちが多い。ぼくが一時期住んでいたペルーでは、公共の交通手段に乗り込み、音楽を奏でたり、悲惨な身の上話をして喜捨を乞う人たちと日常的に出会う。雑草にしか見えない「悪魔払いの草」で商店を祝福して歩く俗宗教家もいた(費用が安い。ジュース一本くらいの値段)。
彼らのうち、宗教系の稼業を行う人たちに「資格」なんてありえない。信仰心があるかも疑わしい。純粋に、職業なのだ。
現代日本の托鉢僧は労働者だった――。しかし職業とはいいながらも、道行く人は、彼らに施しをすることで「いいことしちゃった」気になるのである。そしてそんな気分が、何億分の一程度の効果かもしれないが、その人からまた別の人へと伝わるかもしれない。
そう考えれば、托鉢僧の「宗教性」ってのは、資格の上にアグラをかいているだけの聖職者よりは、本物だ。
なお、彼らが着ている法衣は誰でも買える。ネット販売もあるほどだ。
〆
ミリオン出版『漫画実話GON!ナックルズ』掲載
合掌。
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