2007年9月3日月曜日

(墓12)還流する信仰

還流する信仰
日系ペルー人の宗教、今と昔
太田宏人


●ペルー移民と布教

日本の各教団における南米布教の中核はブラジルである。日系人が多いためだ。
一方、隣国ペルーへの移民は明治32(1899)年に始まった。ブラジルより9年早い。当初は農園労働者だったが、のちに都市型移民に変化した。

対ペルー布教は、明治36年に曹洞宗と浄土宗が先鞭をつけた。教団の命を受けた布教としては、南米最古だ。曹洞宗は、初の集団移民(同32年)以前からペルー布教の準備を進めていた。当時の気概が、『宗報』(現『曹洞宗報』)第142号(同35年)の記事にほとばしる。いわく〔いまや日本の同胞は全世界に居住する。彼らが特定の宗教の信者であろうがなかろうが、およそ人間の心を有するならば、宗教心があってしかるべき〕とし、「之れを指導するは司敎者の天職なり」と論断する。国策布教の台頭前の、純粋な布教精神である。曹洞宗が派遣した上野泰庵師は、この精神の軌跡に連なっていた。

●日系人の信仰史

布教に成功したのは上野師で、浄土宗派遣の二人の開教使は数年で帰国した。上野師は明治40年にはリマ県カニエテ郡に「慈恩寺」を創建した。以降、慈恩寺は日系社会の「移民の聖地」として性格付けられていく。上野師以降も同宗は後継者を送り出し、坐禅会や説教会が開かれた。葬祭儀礼だけではなかった。

しかし、邦人は生き抜くために都市の社会に食い込む必要があった。そこで「代父」というカトリックの制度が利用された。これは、洗礼時に両親以外の成人男女が立会い、新生児の後見人になる制度だ。先見の明ある一部の邦人は、ペルー社会の実力者に代父を頼み、一家の保障とした。洗礼は便宜でもあった。だが、親の思惑とは裏腹に、二世たちはキリスト者の純粋な自覚を強めていった。昭和10年ごろには「生者の宗教」はカトリック教会に、「死者の宗教」は慈恩寺に象徴される日本の宗教に、という機能分担が顕著になっていた。

●現在のすう勢

ペルーで布教した伝統教団は、歴史的には曹洞宗と浄土宗である。新宗教系では、生長の家が一世の信者がリタイヤするまでは活発だった。日本語のわかる二世や日本からの戦後の渡来者をメンバーに持つ霊友会にも同様の傾向が当てはまる。

日系各教団のおよその信者数は、以下の通り(順不同/昨年9月調査)。①パーフェクト・リバティー教団:1000人、②世界救世教 いづのめ教団:4600人、③生長の家:100人、④崇教眞光:3万人、⑤創価学会:3万人、⑥真如苑:20人(以上、ペルー人信者が多い組織)。⑦霊友会:3000人、⑧天理教:100人、⑨保守バプテスト同盟(本部/仙台市):40人(以上、日系人が中心の教団)。

リマ日系社会総合調査(慶應義塾大学地域研究センターほか、95年)によれば、リマの127人の日系人のうち、カトリックが115(90.55%)、プロテスタント2、ユダヤ教1、仏教5、新宗教(生長の家1、不明1、PL2〔カトリックとの重複1含む〕)。

昨年(2002年)は浄土真宗ペルー本願寺の入仏式があった。担当の林静雄師(リマ在)によると、信者は数名だ。

慈恩寺に檀信徒はいない。最後の住職が平成4年に遷化後、同宗は僧侶を派遣していない。ブラジルの宗侶が偶に出張する。

●今後は「国内開教」へ
現在、日本国内には約5万人のペルー人が居住する(昨年末の法務省統計)。出稼ぎ(デカセギ)と家族だ。日系人の出稼ぎが合法化した90年代初頭から働く人も多い。日本生まれの「二世」も少なくない。法務省統計によれば、ここ数年で毎年700人前後の子どもが生まれ、70人前後が亡くなっている(幼児と成人の合計)。もはや、生死をともなう定住(停住)者だ。ブラジルからは30万人が来ている。

伝統教団は、ペルーのカトリック教会が日本人移民を抱きとめたように、ニューカマーといわれる彼らを受け入れているだろうか。ペルーでは、二世以降の世代に熱心な聖職者が出現し、コミュニティー内の布教で大成功を収めている。

グローバル化した現代では、人と同様、宗教も還流するのである。本国の日系社会を人的にも経済的にも支えるのが、彼らデカセギであることも重要だ。

米国の調査機関は「日本は今後50年で、年間35万人の移民を必要とし、労働人口の減少を防ぐためにはその倍が必要」と報告する。国内開教は、国外開教と同等に意義あるミッションといえよう。


『仏教タイムス』2003.11.13掲載


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