2007年9月3日月曜日

(墓17)蒲田の沈没船

蒲田で沈没船を見つけた。
この街は、つかこうへいの映画「蒲田行進曲」で一躍、全国区レベルで有名になった時期もたしかにあったが、多くの東京人にとってさえも、「用がなければ一生行かない東京南部のどんづまり」かもしれない。

繁華街と住宅地と風俗営業店が密集し、多摩川と東京湾にも近く、まるで地方都市のような賑わいを見せる蒲田。この街をつらぬく呑川(のみがわ)沿いには、古い街らしくいくつもの神社が存在する。子安八幡神社(北糀谷一丁目)もそのひとつで、眼前に架かる「八幡橋」の真下に、その沈没船はあった。

現場は、京浜急行の「京急蒲田」から歩いて十数分のところ。河口までそう遠くないので、潮の香りが漂う。といっても、あまり爽やかなものじゃないが。
呑川の水面は暗緑色に濁り、ほとんど停滞している。上流から流れてきた水の量よりも、海から逆流したもののほうが多いような雰囲気である。川というより、運河といったほうが、実際に見たことがない人にとっては、実物とかなり近いイメージを呼び起こせるかもしれない。
典型的な三面コンクリート垂直護岸とよばれる「川」だ。その昔は本当に自然の川だったが、人工的に作りかえられた。現在では水源も水処理場からの処理水である。地図によっては「新呑川」と書かれている。

橋から見下ろすと、コンクリートの切り立った岸にへばりつく状態で、転覆した沈没船があり、ひっくり返った白い舳先(ステム)が空を向いている。船体の八〇%は、水のなかだ。なお、沈没船を意味する「沈船」は専門用語である。

「わたしたちも、困ってるんだよね」
と嘆息まじりに話すのは、この沈船の近くに船を繋留(けいりゅう)しているMさんだ。
Mさんによると、ある日、転覆して横倒しになった船が、漂流してきたという。
船の持主はわからない。その後、対岸に船を繋留するK丸の持主が、本来の所有者からたのまれて、沈船の「委託管理」をはじめたという。

ところが、この船は多くのボートで使われている丈夫なFRPという素材でできており、当面は腐って沈降する見込みがない。そのため、水の流れのままに漂い、川幅十数メートルの呑川をふさいでしまうこともあった。他の船にぶつかる危険性もあった。そうこうするうちにひっくり返って、船尾が川底の泥土に埋まってしまった。そしてあきれたことにK丸の持主が、なんと「沈船の権利を放棄する」と一方的に宣言。事態の対処に苦慮したMさんと船の仲間たちで、杭を立て、現在の場所に固定した――というのがこれまでの「困った」いきさつのようだ。
で、K丸の持主は「引き上げてくれりゃ、勝手に使っていい。あげる」とまで言っているので、Mさんたちは近々、この沈船を引き上げて修理するつもりだ。

「費用は五万から十万くらい。水びたしのエンジンはダメだけど、船体はまだ使える」という。
子安八幡神社から河口に向かって百メートルくらいの場所(産業道路の橋の直前)でも、沈船を発見した。
こちらはどうやら木造船らしく、完全に水没している。まさに浮かんでいた船がそのまま素直に沈んでしまったという格好だ。操舵室の天井が水面上に残るのみである。
この沈船に関しては、現場ではめぼしい情報は得られなかった。

沈船の写真を撮りに行った日は、あいにく午後から急に雨雲が濃厚になり、Mさんに聞き取り取材をしているころには、案の定、ゴロゴロという音が聞こえ出した。
そしてスコールのような大雨が襲来。平成一三年の夏。久しぶりの、蒲田の降雨である。稲妻が走り、天も割れんばかりの雷鳴がとどろく。
雨が降りはじめて数分もすると、川沿いの歩道から人通りが絶えた。傘をさしていても衣服がびしょびしょになるほどの雨量だから、無理もない。

歩道から川を見下ろす。
夕立に叩かれるそれぞれの沈船は、いっそうミスボラシイたたずまいになっていた。
以前、青森県の車力村の浜に放棄された座礁タンカーの内部を探検したことがあった。誰もいないブリッジや、水に漬かる真っ暗な船倉。船内を吹き抜ける風の音。蒲田で見つけた沈没船は規模も小さく、比較すべくもないが、濡れネズミになりながら写真をとっていると、なぜか車力村の、あの無人の荒涼とした海岸で感じた「怖れ」のようなものを体で、思い出してしまった。
漂い流れて寄り来るものに対する、ある種の畏怖のようなものかもしれない。

この国には、漂着物を神とあがめる習俗があった。
この世ならぬ異郷からの訪問者。つまり、訪れる神のモチーフである。エビス・ビールのラベルに描かれた恵比寿さんは七福神の一人だが、この恵比寿も漂着神的な性格を持っている。そして、民間における代表的な農耕の神という「田ノ神」も、春、異郷から里を訪れ秋に還って行く神であり、海洋の漂着神の変形ではないかという説もある。有史以降の長い年月の積み重ねによって、日本人は「農耕民」として語られることが多いが、海洋民族としての面影を、こういった信仰の世界では垣間見ることができる。しかも、かなり色濃く。

漂着船そのものが神聖視された形跡もある。東南アジアから漂着した丸太舟などは、世界を知らない当時の日本人にとって、奇異なものでもあり、海のかなたの桃源郷の実在を強くイメージさせたことだろう。沖縄でいうニライカナイだ。今昔物語集巻の三十二には、越後の国に小型舟が漂着した記録があって、よほど人々の興味を引いたようだ。この個所は説話ではなく、事実に基づくものと思われる。

そういえば、日本史を大きく塗り替えた鉄砲も、種子島に漂着したポルトガル船がもたらしたものだ。日本に開国を迫った黒船も、海から来た。日本人にとって、海や(内陸部にあっては川や湖)は、まさに異郷への接触地点であり、祀りの場なのだろう。


●じつは、沈没船は不法繋留だった


話が脱線したが、蒲田の沈没船である。
沈船の放棄は、言ってみればクルマの不法投棄みたいなものだ。
いったい誰が、どんな理由から沈船を見捨てたのだろうか。そこで、呑川に繋留する船舶を監督する大田区役所の土木第三課に電話を入れてみると、
「沈船は、二船とも不許可船舶です」
という答えが返ってきた。呑川につないであるプレジャーボートなどの半数以上は、じつは無届の船舶なのだそうだ。そのため、例の沈船も持主は分からないという。しかも、船体に名前さえ書いていないため、現場で船を繋留する人たちのあいだでも、オーナーは知らないという。
たとえて言えば、月極め駐車場の隣のクルマの持主を知らないのと同じことか。

大田区では、不許可船舶に対しては緑色の警告ステッカーを貼り、注意を促している。実際の取り締まりは東京都が行うのだが、関係者によれば、
「予算の関係もあって」
思うようにいかないのが現状のようだ。
「厳密に言えば、船の所有者ではなく、沈めてしまった(航行をした)船長に責任があり、その人が引き上げるべきだと考えるのが、普通です」(大田区役所土木第三課)。

ところが、“沈めてしまった人”を罰する法律というものは、明確には規定されていないのだ。だから、故意にしろ過失にしろ、沈船を放棄しても通常は罰せられることはない。
このため、日本全国で小型船舶(とくに沈船)の不法投棄が大きな問題になっている。
漁業の操業水域では、網が絡まったりする。沈船に潮流がぶつかることで、海や川、湖の底部分の地形が変化し、生態系の変化や悪影響が出ているという。さらに、沈船からのさまざまな有害物質の流出も懸念される。

そして今後も、この問題は拡大傾向にあるといえる。
船体の素材として使われるFRPは、永久使用できるわけではない。いつかは寿命が来る。廃船は、合法的に解体されることもあるが、不法に捨てられることもあるだろう。しかし、取り締まることができないのだ。船舶の所有がクルマのような登録制ではないことも、不法投棄に拍車をかけている。船体検査にでも出ていれば別だが、所有者を割り出すことは困難という。

もちろん、テロに使われても、それは同様なわけだ。考えてみれば、結構物騒な話ではある。
取締りが可能なケースもある。沈没船からのオイルなどの流失がおびただしい場合だ。
同土木第三課によれば、「投棄によって故意に環境を汚染していると認定できれば、公害防止に関する条例違反で、区の環境部が告発することも理論的にはできる」という。だが、前例はない。

放棄された沈船を引き上げる権限は、これも東京都がもっている。
都では、河川や運河を沈船がふさぎ、船舶の航行に多大な支障をきたすときはやむを得ず引き上げを行うが、それ以外ではなかなか対処できていない。
蒲田は、大正時代以降には中小の工場が集中し、京浜工業地帯の一角として日本の産業を支えてきた歴史を持つ。それだけに、工場廃水などで呑川の汚染がひどい時期もあった。

いまでも時折悪臭が充満し、干潮時には川底のヘドロもちらほらと見えるものの、回遊魚のボラが遡上して川面に跳ねる、そんな風景も見られる。羽田空港を望む河口部では、さまざまな魚が棲み、カニや貝もたくさんいる。この付近では昭和三八年まで海苔の養殖を行っていたくらいだ。

呑川は、なんの風情もないコンクリートに囲まれた川には違いないが、このまま不法投棄された沈船の墓場にするにはもったいないような気がする。


ミリオン出版『ダークサイドJAPAN』2001年10月号掲載
合掌。

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